2017/07/24(月)11:12
久保田城(出羽国)~その2
二の丸から本丸への表門「一の門」の先には、本丸跡が公園広場となって広がっています。
表門「一の門」(城内から見たところ)
本丸跡
久保田城跡にある千秋公園は、市街地の都市公園にしては緑の多い公園だと思います。
実際に前にここを訪れた時は、丸のすぐ近くに野生のカモシカがいました。
千秋公園の案内図
現在の本丸跡には、後世になって佐竹氏にゆかりの建造物が建てられました。
幕末の秋田藩最後の藩主、第12代佐竹義堯像
旧家臣団によって1915年に建立されましたが、太平洋戦争の金属回収策によって供出され、秋田市制100年の1989年に復元されたものです。
八幡秋田神社
初代佐竹義宣を祀るために1878年(明治11年)に建立されたのが秋田神社で、佐竹氏の氏神である八幡宮を合祀して、八幡秋田神社となっています。
江戸時代の文政年間に造営された八幡神社が移築現存していましたが、平成17年に放火によって焼失し、現在の社殿は平成21年に再建されたものです。
本丸の北西側には、新兵具隅櫓「御隅櫓」が復元されています。
前回2007年に久保田城を訪れたのは4月の初めのことで、御三階櫓手前の桜の木には葉がなく、わずかに蕾がついていたのを覚えています。
御隅櫓に上がってみると、前回とは違って周りの景色もすっかり変わっていました。
御隅櫓から見た太平山の方向
前回2007年4月初に訪れた時、太平山にはまだ冠雪が残っており、春の日差しの中に吹く日本海の風は、まだ冷やりとしていました。
かつては御隅櫓に続く土塁上には、多門長屋があったようです。
御隅櫓内にある復元模型より
現在の多門長屋跡
久保田城の本丸は西側が高くなっており、搦手も西側にあったようです。
埋門跡
ここが搦手門でしょうか。
西側の土塁
前回訪れた時に野生のカモシカに遭ったのもこのあたりです。
本丸の西側でも、南に行くほど高くなっており、「御出し書院」と呼ばれる場所が最も高くなっていました。
御出し御書院から見ると、茶室「宣庵」を眼下に望む感じです。
御出し御書院から見た茶室「宣庵」
茶室「宣庵」から見た「御出し書院」の土塁
この辺りは土塁が最も高くなっています。
「宣庵」の庭園に何気に置かれている舟形手水鉢は、加藤清正が文禄の役で朝鮮から持ち帰り、石田三成のはからいで大阪城から佐竹氏に贈られたと伝えられています。
佐竹義宣と石田三成の親交ぶりはわかりますが、加藤清正と石田三成は犬猿の仲であり、そんな歴史の手水鉢が久保田城にあることに驚きました。
(久保田城が築城されて手水鉢がここに置かれた時、すでに石田三成はこの世にいないはずです)
この手水鉢が久保田城にある経緯が真実ならば、一刻も早く文化財に指定して保護すべきだと思うのですが。
久保田城が築城されたのは関ヶ原の戦い後の1603年で、築城主は常陸(茨城県)の雄者、佐竹義宣です。
佐竹氏と言えば、新羅三郎以来の源氏の流れを汲む名門で、佐竹義宣の父である佐竹義重は、「鬼・義重」や「坂東太郎」と呼ばれ、伊達政宗や北条氏康とも互角に戦ってきました。
さらに佐竹義宣の代になると、永年の念願であった常陸統一を果たし、水戸城を本拠として54万石を領有しています。
佐竹義宣は石田三成と親交が深く、関ヶ原の戦いでは西軍寄りの立場をとっていました。
一方で父の佐竹義重は東軍寄りの立場をとっており、結局佐竹義宣としては東軍と西軍のどちらにも加担しない中立の立場をとっていました。
関ヶ原の戦い後はその態度を徳川家康に咎められ、常陸54万石から出羽秋田18万石へ大幅に減封されています。
佐竹義宣が1594年に常陸を統一してから1602年に湊城に移るまで、水戸城に住んだのは10年足らずのことでした。
佐竹義宣と共に父佐竹義重も常陸太田から秋田に移ってきましたが、新天地での領国経営は決して順調なものではありませんでした。
相次ぐ反佐竹の一揆に悩まされ、「坂東太郎」の父佐竹義重が一揆の鎮圧に出撃することもあったほどです。
佐竹義宣は1602年に久保田城の築城を開始、以後ここが佐竹氏の本拠となりました。
奥州の旧家臣団を積極的に登用したほか、新田の開発も積極的に行って、秋田の城下町を大きく発展させていきました。
日本城郭協会「日本100名城」
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