パクス・ジャポニカ Vol.2

2017/08/01(火)23:08

払田柵(出羽国)

城跡と史跡(青森・秋田・山形・宮城・福島編)(41)

古代城柵としては多賀城や秋田城に並ぶ規模にありながら、「幻の城柵」と呼ばれるのが払田柵(ほったのさく)です。 「払田」とは現在の地名であり、当時は何と呼ばれていたのかわかっておらず、「無名不文」の城柵と言われています。 それでも外柵と外郭によって囲まれた政庁跡があったのは間違いなく、発掘調査によって当時の遺構が復元されていました。 外柵南門(復元) 外柵の内側に流れていた川も復元され、南大門に至る大路に架かる橋が復元されています。 南大路の木橋 政庁に至る南大路跡 政庁は丘陵部の上にあって、外柵のさらに内側を外郭の柵で囲まれていたようです。 外郭南門跡 外郭南門の柱(復元) 外郭南門西側の石塁は上側が復元されており、下側は発掘された当時のものです。 平安時代初期の9世紀頃の建造とされています。 外柵も外郭も自然の地形に沿った不整形をしていますが、政庁は方形の塀で囲まれており、やはり南側に門がありました。 政庁南門跡 払田柵については諸説ありますが、ここに政庁と城柵があったことは間違いありません。 政庁の正殿跡 払田柵の政庁は行政的な意味合いは薄かったようで、正殿前の広場では儀式・祭祀や饗応が行われたとされています。 政庁の東側、少し小高い場所にも板塀に囲まれた建物があり、こちらが実務的な場所だったようです。 政庁東方建物群板塀(復元) 政庁東方建物群(復元) 「払田柵」そのものの名前は文献に記載がないため、築城については定説がありません。 文献に登場するものとしては「河辺府」説があり、出羽柵が秋田城に遷された後、国府がさらに遷されて804年に完成したとされるものです。 もう一つは「続日本紀」に登場する「雄物城」説で、こちらは759年に築城されています。 出羽柵と多賀城の間に築かれたとされる記述に一致します。 外郭北側の門跡から出土した木材、年輪による年代測定では801年のものだそうです。

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