2022/05/02(月)06:17
志布志城(日向国)
大隅半島の志布志湾に面する鹿児島県志布志市は、「日本一『志』の多いまち」とされています。
(その志布志の中で最も「志」が多い地名が、「志布志市志布志町志布志」でしょうか)
志布志城は内城・松尾城・高城・新城の4つの中世城郭の総称で、シラス台地の上に築かれた南九州型城郭です。
大手口
両端が切岸上に切り立っており、その間に堀底道が通っています。
縄張図
大手口の脇に「矢倉場」の名前があるので、まずはそちらに行ってみました。
矢倉場の曲輪跡
ちょうどお彼岸だったので、ここでも曼殊沙華が咲いていました。
矢倉場の奥の隅には、新納氏の初代である新納時久の墓所が静かに建っていました。
矢倉場を後にすると、虎口を抜けて再び薄暗い登城道に戻って行きました。
矢倉場の虎口跡
火山灰が降り積もった登城道に戻ってくると、シラス台地のガリ地形特有の切り立った切岸が現れました。
ふと南房総を思い出したのですが、自然の切岸を使った城郭は、里見氏の城郭でよく見られます。
ところで登城道にはブロック塀が見られますが、生活の道に使われていたようで、その先には完全に廃屋となった民家がいくつかありました。
崖状の切岸で見通しが悪い中、堀底道のように道が続いていました。
本丸直下の堀切跡
本丸は上段と下段に分かれていました。
本丸下段
本丸上段
本丸上段からさらに一段高い場所には、新納氏の守護神である三宝荒神が祀られていました。
南北朝時代にはここまでが城郭だったようです。
久々の戦国城郭かつノーマル装備ということもあり、かなり慎重になっていました。
志布志城の「内城」からは本丸で撤退し、「松尾城」の方へ行ってみました。
松尾城遠景
同じく中世城郭だったのですが、あまりの藪の多さに撤退を余儀なくされました。
最近は近世城郭ばかり訪れていて、中世の山城に挑むチャレンジ精神がぬるくなっているように思います。
志布志城の築城年代は明らかではありませんが、南北朝時代からあったようです。
南北朝時代に新納時久の次男である新納実久の時に志布志に本拠地を移しました。
その後は反島津の肝付氏の支配となりますが、1577年に肝付氏が没落すると、島津氏の直轄領として鎌田政近が入城しています。
日本城郭協会「続日本100名城」