パクス・ジャポニカ Vol.2

2018/02/18(日)22:40

横浜が発祥のあれこれ(山下編)

城跡と史跡(神奈川編)(66)

明治維新は政治体制だけでなく、生活のすべてを変えてしまうほどの大改革だったと思います。 それでも「文明開化」の言葉には、どこか希望と明るさが感じられ、「西洋に追いつけ」だけでなく「追い越せ」の言葉の中に、明治のバイタリティーを感じます。 現代の生活では当たり前であり、むしろ必要不可欠となっていることも、この時代に始まったことも多々あります。 今回は山下の旧外国人居留地の発祥をご紹介します。 まずは山下公園にあるのが、「西洋理髪発祥之地」の碑です。 「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」 1871年(明治4年)の「斬髪脱刀令」に先だって、1869年(明治2年)に日本初の「西洋理髪店」が横浜で開業しました。 旧山手居留地の境、堀川の川べりにある山手迎賓館には「機械製氷発祥の地」の碑があります。 山手迎賓館(結婚式場です) 1879年(明治12年)に「ジャパン・アイス・カンパニー」が設立され、当時は同じ開港地である函館五稜郭の外濠の氷を船で運んでいたそうです。 そして山下公園近くの海岸通りにあるのが、「銀行発祥の地」です。 開港後、香港上海銀行(現在のHSBC)横浜支店が、最初に設立されました。 居留地の境である日本大通り界隈は、通信やインフラの発祥の地でもありました。 日本大通りの旧山下居留地にある横浜港郵便局は、外国郵便発祥の地でもあります。 今では廃れてしまった電報も、横浜が発祥でした。 現在の横浜地方裁判所(横浜市指定歴史的建造物)は、横浜電信局のあった場所です。 「電信創業の地」のプレート 東京電信局との間で電報の取扱が開始されたのは、1869年(明治2年)のことでした。 日本大通りには「近代下水道発祥の地」の碑があり、開港記念広場にはレンガ造りのマンホールと下水管の遺構が残っています。 開港記念広場から続く大桟橋通りには、かつて横浜電話交換所があり、「電話交換創始の地」とされています。 また、現在の開港記念広場辺りには、かつて外国人向けの日用食品街である「お貸し長屋」があり、「近代のパン発祥の地」の碑があります。 内海兵吉がフランス人に製法を習ってパン屋を始めたのが1860年のことで、当時は焼き饅頭のようなものだったそうです。 その後、イギリス人の「ヨコハマベーカリー」を受け継いだのが打木彦太郎で、現在も元町に「ウチキパン」として営業されています。 「食パンの発祥」のウチキパン 大桟橋通りにはかつて「居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)」の本拠地があり、当時の防火貯水槽の遺構が残っています。 そして居留地消防隊が、「消防救急発祥」とされています。 大桟橋通りを挟んで、消防救急発祥の地の向かいには、かつて「ヨコハマ・ホテル」がありました。 現在はレストランかをりの本店があり、ここが近代ホテル発祥の地です。 開港から間もない1860年(万延2年)にオランダ人によって造られたもので、ハイネやシーボルト、クラーク博士なども宿泊したそうです。 市民レベルでも明治維新は確実に行われていて、「西洋に追いつけ 追い越せ」の精神でこの時代を生き抜いた人たちには、本当に感服します。

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