2018/05/16(水)22:37
岩槻城(武蔵国)
GWはどこへ行くでもなかったので、とりあえずゼットを転がして城跡めぐりに出かけて行きました。
(フェアレディZの泣き所、フロントのブッシュをアーム毎交換したので、試運転も兼ねて)
向かった先は、さいたま市岩槻区にある岩槻城(岩付城)で、現在は岩槻城址公園として整備されています。
池に架かる橋は「八つ橋」と呼ばれています。
八ツ橋
当時の城郭は沼池に浮かぶ水城のような縄張りだったようです。
現地解説板にある案内図
現在では公園としての整備が進み、遺構としては戦国末期に南東側に造られた「鍛冶曲輪」の跡が残っています。
土塁の跡が残っており、公園の入り口も虎口の跡に見えなくもありません。
鍛冶曲輪内側の土塁と空堀跡
「鍛冶曲輪」は北条氏が岩槻城を支配した時に造られたようで、鍛冶曲輪の空堀からは北条氏特有の障子堀が発掘されました。
障子堀が発掘された後は埋め戻され、現在は遊歩道として整備されています。
公園を散策してみると、明らかに曲輪と思われる跡が残っていました。
縄張図と比較しても判然としないのですが、鍛冶曲輪の一部または竹沢曲輪かも知れません。
江戸時代の岩槻城には岩槻藩の藩庁が置かれ、なんと当時の門が移築現存していました。
黒門
珍しい長屋門形式で、大手門だと伝えられています。
裏門
こちらも移築現存しているものですが、元々どこにあったかはわからないそうです。
岩槻城の築城については、2通りの説があります。
川越城と同じく太田道真・道灌父子とする説と、忍城の成田氏とする説です。
それでも岩槻城は代々太田氏の居城であり、城主によっては上杉氏についたり北条氏についたりと、立場は目まぐるしく変わっていました。
1486年に太田道灌が殺された後は、養子の太田資家が岩槻城に入り、小田原北条氏の北上に備えていました。
太田資家は北条氏に寝返りますが、太田資家の子太田資頼が再び岩槻城を北条氏から奪還しています。
以後太田氏は上杉謙信方につき、北条氏の関東制覇に抵抗し続けました。
その中でも智略と武勇で有名なのは、太田三楽斎資正(道灌の曾孫)でしょうか。
その太田三楽斎資正のエピソードとして、軍用犬の話があります。
太田三楽斎は武蔵松山城と岩槻城を結ぶラインで、北条氏の北上に備えていました。
そして犬を連れて、松山城と岩槻城の間を往復していたそうです。
周りの人は「何を考えているのか?」と不思議に思ったそうですが、この策が後に功を奏しました。
小田原の北条氏康は松山城と岩槻城の連絡線を断った上で、松山城を攻撃してきました。
その時松山城ピンチの知らせを岩槻城に知らせたのが、それまで何度も往復していた犬たちです。
太田三楽斎はすぐさま岩槻城を出発し、松山城救援に行くことができたそうです。
そんな太田三楽斎ですが、留守中に息子の太田氏資が北条氏に内通したため、岩槻城を追い出されています。
岩槻城には、北条氏政の子である北条氏房が太田氏房となって入城し、以後は北条氏の支配する城となりました。
鍛冶曲輪や障子堀が造られたのも、この北条氏の支配にあった時です。
1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは、岩槻城も豊臣方に包囲されて落城しました。
徳川家康が関東に移って来ると、譜代の高力清長が城主として入っています。
高力清長と言えば、まだ若かりし頃の「岡崎三奉行」の一人で、「仏高力」と呼ばれた人物です。
あとの二人は「鬼作左」の本多重次と、「どちへんなし」の天野康景で、徳川家康も相当に岩槻城を任せていたことになります。
徳川家康が関東に移って来た時は、江戸城・川越城と同じくらいの城郭規模を持っていました。
家康が岩槻城に本拠地を置いて、ここが首都になる可能性もあったのではないでしょうか。