生き様 / 表現力
公開当時、ずっと見に行きたいなぁって思ってたけど、"牧師"としての立場から、血が大量に流れ人が殺されるシーンはふさわしくないとして見に行かなかった"ラスト・サムライ"、昨日、コンビニのDVDコーナーで980円って値段がついているのを発見、衝動買いしました。んで、今朝帰宅後、午前中をかけて鑑賞。人としての生き様は、その時代、土地柄、そして何より、当人の考え方によって大きく変わるし、恐らく、日本開国時代において、このような侍たちがいたのだろうと思う。すでにこの、武士道が日本から失われて久しい。ボク自身は、いわゆる西洋の騎士道より、この日本における武士道の方が共感を持てるし、単純に惹かれる。それはもしかしたら、無意識のうちに日本人として心に内在しているのかもしれない。であれば武士道は失われたのではなく、武士道を表せなくなったのかも知れない。ボクの生き様とは、いったい何だろう?∽ ∽ ∽ ∽ ∽先日、テスト・ザ・ネイションの結果について日記に書いたけど、その結果について、ちょっとまた、別のことを感じた。ボクの結果は、 1.分析力:13pt/15pt 2.論理力:7pt/15pt 3.空間認識力:14pt/15pt 4.想像力:8pt/15pt 5.記憶力:8pt/10pt 6.判断力:8pt/10pt 合計58pt/80ptだった。(スラッシュのあとは満点値)1,2が左脳の、3,4が右脳の働きを示す。所で、1,3が脳への入力、2,4が脳からの出力という分け方もある。つまり、情報を取り入れたならどのように理解するか、そして、どう表現するか、という分け方。ボクの結果を見て明らかなのは、理解力とされる1,3は際立って高いのに対し、表現力とされる2,4が低いということだ。分析力、空間認識力は13ないし14ptだが、論理力、想像力は7ないし8ptと15pt満点中半分しかないのだ。番組ではこのような分析はなされなかったが、ボクが思うに、この結果は的確なのだろう。つまり、ボクは自分を表現するのが下手な人間なのだ。確かにそう思う。ボクは自分を表現してこなかった。むしろ、それをひたむきに隠してきた。クリスチャン時代ずっと、自分の表現方法が分からなかった。だから、感情を表現してこなかった。いや、表現の仕方を知らなかったと言えるのかも知れない。もちろん、いわゆる処世術として、また社交辞令としてどう表現するかぐらいは知っていたし、そうしてきた。うれしいときは「うれしいです」って言うし、おいしいときは「おいしかったです。ごちそうさま」って言う。でも、それが何かボクのココロにあるモノを突き動かして、音や声や言葉やゼスチャーになって現れると言うことはなかった。こういう時にはこう表現すべきだという知識しかなかったその結果が如実に表れているのが、今回の論理力7pt、想像力8ptという結果なのだろう…この一年間、ボクは自分の表現方法を模索してきた。詩や日記、写真、ホムペのデザイン、音楽、模様替え…自分の考え方や感じ方を表すよう努力してきた。それでも、今思えばほとんどは、人まねに過ぎないように思う。そう、人がしていることをただ真似ているに過ぎないのだ。写真を撮りに行っても「こう云う風景が"キレイ"って言われるんだ」詩を書いても「この前、こんな言葉使ってた人がいたなぁ」模様替えでも「雑誌にこんな風に載ってたから…」云々…そう、では"自分はどうしたいのか""自分はどう感じているのか"が欠けているのだ。「では、あなたはどうしたいの?」この問いに対する答えが見いだせないのだ。内奥から生じる熱い感情に突き動かされて…ということは決してないのだ。こうして、"ボク"という自我は喪失し、ブリーズ・パランの言葉を借りれば、「我思う、故に我なし」となる。ボクの表現の術すべては、自分の独自性・個性の表明などであるはずもなく、幾多の人々がしてきた表現方法の猿まねに過ぎない…∽ ∽ ∽ ∽ ∽ボクが今まで、心を突き動かされて唯一できた感情の表現は、涙を流すことだ。これとて、牧師をやめると決意してから、やっとできたことだ。クリスチャン時代には泣いたことなどなかった。それは、泣くべきじゃない、と脳が指令を出していたのかも知れない。そして、やっと流した涙は、うれし涙などであるはずもなく、ただ悲しみや辛さの表現方法だった。ボクは小さいころ、良く泣く、いわゆる泣き虫な子供だったはずだ。いつのころからか、泣くことを忘れてしまった。怒りもクリスチャンとしてふさわしくないとして封印した。今でさえ、怒りの封印は破られてはいないし、最近はまた、涙を流すこともできなくなってきた。そう、ボクは自分を表現することのできない情けない哀れな人間なのだ…