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日本銀行の全身は、やはり金に縁のある金座の跡であった。戦国時代
までの通貨は粒金、板金といって、目方の取引であったのを、家康が貨幣 整理を企て、後藤庄三郎道光次に命じてここに金座、尾張町に銀座を起し、 金融通貨を鋳造及び鑑定させた。江戸時代、大判小判を光次といったなは 山吹色の貨幣面に墨痕鮮やかに光次と書いてあったからである。 金座の土には金糞がこびりついていたから、火事の後でもめったに手を つけさせず「土一升に金一升」という、高踏的の諺を産んだのは、 地価の思惑騰貴などの意味ではは無く、正真正銘の意味である。 されば、明治21年、日本銀行の基礎工事にかかったときには溶金のくずが土に 混ざってって夥しく出たそうで、それを構わずに掘り下げると、地下20尺の ところで何畳敷だか検討も付かぬほどの一枚岩にぶつかったから、 その上をコンクリートで一丈あまり築き上げて、地下室ぐるみ4階の 大石造館を建てたのである。明治29年の落成で一坪あたりの建設費が 9円と聞いてフンと鼻でわらってはいけない。いまの相場は検討もつかない。 この地下室には、この大金庫に向かって金塊、銀塊を出し入れすべき 運搬車の軌道が八重十文字に敷設され、地上1階には、紙幣の山が腐るほど 積んである。これを見れば大抵の神経衰弱はなおってしまう。 (「矢田挿雲、江戸から東京へ」より) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.22 11:50:47
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