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小言幸兵衛の「徒然日記」

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2007.05.04
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カテゴリ:カテゴリ未分類
 直江兼続は決してメジャーな武将ではないが、戦国末期には重要な働きをした。彼は

1560年に生まれた。山本勘助が川中島で壮絶な戦死を遂げた翌年に生まれている。

当初は樋口と名乗り、謙信に仕えたが、謙信亡き後、その子(養子)景勝に仕えた。

秀吉は上杉家を厚遇した。越後の春日山から会津120万石に移封されたとき、秀吉は

直江兼続に米沢30万石を与えた。関が原の戦いでは、上杉は西軍についた。「家康に最も

恐れられた男」といわれた、ひたすら利のみを求める戦国時代に、知勇兼備の武将として

尊敬された。直江兼続が活躍した時代では、秀吉、伊達政宗、真田幸村、黒田官兵衛

佐竹義宣等が活躍した。家康側の東軍にも多くの武将がいた。

関が原が始まると上杉は山形の最上義光を攻撃する。関が原は東軍勝利でおわってし

まった。上杉は降伏して家康に謝罪するが、会津120万石から米沢30万石に大減封され

る。兼続の嫡男は早世したため本田正信の息子である正重が一時養子になった事もあったが

この養子縁組は解消され、結局直江家は断絶する。慶長19年からの大阪の陣においても

徳川方として参戦し、武功を挙げた、

元和5年12月19日、江戸屋敷で病死する。享年60歳。

「天地人」は原作は火坂雅志、脚本は小松江里子(どんと晴れの脚本家)、出演者は未定。

混迷の続く現在、直江兼続のような偉人が出現しないと、日本は危機を迎えてしまう。






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Last updated  2007.05.04 16:07:05



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