血を流さずして遂げられる志ではないと自分を励まし、西郷も何とか上野を戦ったが、その直後から気持ちが萎えた。 事実、入植は難航した。そこで考えられたのが、屯田兵の制度だった。ロシアの脅威に脅かされる土地でもあれば、禄をなくした士族を屯田兵として北海道に入植させ、そこで警備と開拓をやらせれば、一石二鳥ではないかというのだ。 身とみられるか認められないかの分水嶺は、その戦いに天を思う気持ちがあるか、天道を行おうとする意志はあるかに尽きる。 逆に自分のために戦うようでは、勝つほどに恨まれ、恨まれるほどに怯え、怯えるほどにまた武器を取る無間地獄に嵌るだけだ。 『南洲翁遺訓』を編んだのは薩摩でなく、旧庄内藩の人々だった。 |