筆者は、職業上、小説家に分類されている。従って書くものはことごとく小説として分類されるものでありたいとねがっているものの、しかし小説の概念のほうがそれをゆるさない。 小説とは、かりに定義をいうとすれば、美学的に秩序づけられた妄言といってよく、その意味では、ここに書いていることもまたとりとめもない。
私はモンゴルにくるたびにこの国は生きのびられるか、と自問自答するが、数日たつと、そんな疑問をもったことさえ忘れる。遊牧の経済は、いまの世には適いにくくなっているとはいえ、他国に肉や毛皮や毛織物をうまく売ってゆけば、わずか二百数十万ぐらいの人口だから十分に食ってゆくことができそうなのである。
要するに都市など要らない、という気分がどのモンゴル人にもありつつ、首都ウランバートルにおける都市性は存在している。 つまりは国家的体面として必要なだけである、というあっけらかんとした気分がかれらにあり、だから霧が去ったように都市が消え、もとの草原になったところで、なんの不都合もおこらない。 "あなたたちは蒙古のために自分の生涯をささげるのです。蒙古がよくなるために、日本のいい文化をとり入れなさい。日本に学ぶといっても、日本人になるというのではないのです" 「そんな話、そのころ、蒙古人からもきいたことがなかったのです。私には、高塚シグ子先生の考え方は新鮮でした。いまでも新鮮です」 |