脳の基本的な仕様は、「被害」を極端に過大評価し、「加害」を極端に過小評価するようになっている。被害の記憶はものすごく重要だが、加害の記憶にはなんの価値もない。これが人間関係から国と国との「歴史問題」まで、事態を紛糾させる原因になっている。 わたしたちは当然のように、被害と加害をセットで考えるが、被害者と加害者では同じ出来事(現実)をまったく異なるものと認識している。この大きな落差を理解しないと、自分が「(絶対的な)正義」で相手は「(絶対的な)悪」というレッテルを押しつけ合って、収拾のつかないことになる(例をあげるまでもなく、あちこちでよく見かけるだろう)。 進化の淘汰圧は生存と生殖を最適化するように生き物を「設計」したのだから、徹底的に社会的な動物であるヒトの場合、社会を「公正」に保つためのなんらかのプログラムが脳に埋め込まれたはずだ。 社会心理学では、ひとは無意識のうちに、「世界は公正でなければならない」と考えているとする。これが「公正世界理論(just world theory)」だ。この信念によって、わたしたちは不正に対して怒りを感じ、それを正そうとするように進化した。 地位をめぐって競争しているときに、高い地位につく資格がないことを自ら認めるのは致命的だ。こうして能力の低い者は、その事実を相手に知られないように、自分の実力を(無意識に)過大評価する。 一方、能力の高い者は、相手も自分と同等の能力をもっているだろうと(当初は)想定する。なんの情報もないときに相手を見くびると手ひどいしっぺ返しを食らうことがあるし、共同体のなかで目立ちすぎると、多数派によって排斥される危険があるからだ。 その結果、能力に大きなちがいがある2人が話し合うと、(自分の能力を過小評価している)賢い者が、(自分の能力を大幅に過大評価している)バカに引きずられ、間違った選択をしてしまうのだ。
理想が実現することはないってことですね。 |