ラッキィセブンティライフ

2022/10/14(金)15:57

戦争と平和

8月15日終戦記念日がやってくる。 新聞に「戦争と平和」についての寄稿を求める宣伝が出てた。  戦争経験者なるものが激減の現在、貴重なる経験者として機構しようとかんがえている。  といっても、小学生でふりまわされてただが、従事したことは事実である。  老人会、シニア会といってるが、この小学生経験者もあまりいなくなった。  昭和16年12月8日が、いわゆる「大詔奉戴日」といって、、天皇陛下から、開戦の詔勅が下った日として貴重された。小生が16年4月に「国民学校」1年生として入学した。 「大詔奉戴日」なるロゴが言えなくて、朝歯みがきながら、教頭先生の父親のそばでくりかえし、覚えたことを記憶している。厳格な父親で、新聞を畳に広げ読んでいるときには、歩いていて、すこしでも新聞に足が触れたら、大きな手で折れるくらいの平手打ちが足に飛んできた。  「新聞を作ってる人は、一生懸命に記事を書いている、それを足で踏むなんて失礼だ」というわけだ。 又、当時はラヂオが唯一のニュス源だったので、ニュースの時間に騒ぐと大きな怒声が来たものだった。  騒ぐなと言われたら、かえってなんだか気分が可笑しくなってくるもんで、吹き出すと、つられて兄弟が笑い出す。大きな怒声がとびだす。  ニュースの時間が来ると、嫌なものだったのを記憶してる。  父親がはじめて教頭さんになったんで小さな学校だった。櫨宇土国民学校で、1年、2年と一緒の複式学級だったと記憶している。  先生の子供は、勉強が出来るのが当たり前の空気があり、いつも手本のようにされた。上級生もやさしくしてくれて、ペッタなる紙の切り抜き武者絵をひっくり返すと自分のものになる遊びがあるが、これなどもってきてくれた。いっぱい箱に入れて遊んでいた。それが原因ではないが、病気になり、3か月も学校をやすんだ。病気しても村に医者はなく、母の看病であった。母は医者の子だったので知識はあった。  ようよう学校にいったら、学芸会だという。ウサギと亀の山登り競争だ。  主役のウサギにされたが、ピョンピョンと両足そろえて飛べない時だ。パタパタだ足。  3年になる時に1000人ぐらいの富岡国民学校に転校となった。  人数も雲泥の差があるとびっくりしてるのに、級長の役がきた。  断ればいいのに、まじめに受けた。先生の子であるからの贔屓だったと思うが、こんな役なんで任せたのか今もわからん。がっちりいじめを受けた。でも耐えた。  4年には戦況まっさかりとなり、学校は、兵隊宿舎となり、分散学校でお寺があてがわれた。  昭和20年8月6日に広島に原爆がおとされ、9日になって、午前11時頃、緑の光がピカットしたら、おおきな振動。大変、本堂から飛び降り、庭の隅のタコツボ防空壕にとびこんだ。  東の空におおきな入道雲ごとき、きのこ雲があがった。長崎のプルトニューム原爆雲だった。  広島で20万もの死人がでたら、だまってても降参間違いないことはわかってる。  だのに、ウラン原爆の威力は、広島でわかった。続きがみたいので、降参もたもたの間にプルトニュームの威力実験を長崎で行ったというわけだった。負けるものには発言なし。  一人で軍艦1隻撃沈できる。特攻隊志願。国民学校3年生は、それが日本人魂だと思っていた。星柄のパンツ、朝日柄のパンツはいた、鼻高の米英のマンガのおっさんに敵愾心湧かしたものだった。    妻をなくしてもう4か月、だが、まともな行動がまだできない。1人でもこんななのに、砲弾で日常茶飯にまだロシアはウクライナを砲撃してる。人を殺してる。大変である。指導者が狂うと大変な影響がでる。力と力で滅びるまで己を誇示せねばならんのであろうか・困ったものだ。

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