|
カテゴリ:カテゴリ未分類
教会とは 新しい年が来てもう半月が立ちましたが、転送されて 来るメールには、悲しい事態しか記されていません。一 体、日本聖公会京都教区はあの性的虐待事案をどのよう にお考えになっていらっしゃるのでしょうか。被害者の お父様が最初に申し立てた時に、当時の主教は何をお考 えになられたのでしょうか。そして、現在の主教に交替 された時に、あの事案に関しては何も引き継がなかった ということを耳にしていますが、そんなことがあり得る でしょうか。
会なのではないでしょうか。使徒継承というのは単なる 形だけのことなのでしょうか。私も一度、日本聖公会の 主教按手式を一番後ろの席で拝見させていただいたこと があるのですが、あの仰々しいセレモニーはいったい何 のために行われているのでしょうか。主教はあらゆる権 威を付与されているのだということを、すべての聖職者 と信徒の方々に見せつけるためなのでしょうか。それと も、主教は教会がキリストの福音に立つために仕える奉 仕職であるということを、按手を授ける首座主教以下の 主教と、按手を受ける司祭が再確認するためのものなの でしょうか。
すでに性的虐待の被害者の方は、PTSDに苦しまれて いたのではないのですか。そしてそのことを前任の主教 も主教按手を受ける司祭もご存じだったのではないので すか。そして、被害者の方の苦しみや悲しみをまったく 無視するような発言が相次ぎ、火に油を注ぐかのように 被害者の傷口を広げてしまったのではないでしょうか。 そしてこともあろうに、そうした事実を「時効」という 意味不明の言葉で水に流してしまおうとされたのではな いでしょうか。こんなことが、キリストの福音に立ち続 けなけれならない教会の中で行われてもいいことなので しょうか。
けられた人に心から謝罪し、傷つけられた人の傷が少し でも癒されるように祈り、かつその働きをしなければな らないところなのではないでしょうか。前回の京都教区 審判廷における差し戻し審の審判は、傷つけた人を問題 から遠ざけ、被害者の傷を逆撫でするようなことにしか なっていないのではないでしょうか。このことを現在の 主教がお判りにならないのでしたら、教会の管理者とし ての本質的な資質を問われるように思えます。教会とは、 何を語り、何をし、どのような人に顔を向けているかと いうことが、日本聖公会京都教区の執行部の方々はお判 りになっていらっしゃらないようですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.01.16 21:59:12
|