またまた昨日の続きで、『本と図書館の歴史 ラクダの移動図書館から電子書籍まで』
今日は、私の学校のマラソン大会でした。生徒と引率&監督の先生方はバスに乗ってマラソンコースのある近くの、と言っても片道50分ある公園まで出かけました。私はといいますと、学校に残って留守番です。遅刻者を図書館で監督するためでしたが、誰も遅刻してこなかったので、のんびりと書架整理と蔵書点検の準備をしていました。幸い、今日は風もなく暖かい陽気だったので、マラソンの監督も楽だったようです。そんなこんなで、今日も、前回の続き、モーリーン・サワ文、ビル・スレイヴィン絵、宮木陽子訳、小谷正子訳『【送料無料】本と図書館の歴史 ラクダの移動図書館から電子書籍まで』(西村書店、2010年12月)の第2章、「破壊と崩壊の暗黒時代」の紹介と解説の後半部分を書いていきたいと思います。 前回、最初の部分でアレクサンドリアでのイスラム教徒の暴挙の言い伝えを紹介しましたが、このお話に歴史家が疑問を持ったのは、イスラム諸国では学問や書物が大切に思われていたからです。預言者ムハンマドも全ての信徒に学問に励み、コーランを覚える手段として写本を薦めたほどです。その結果、キリスト教徒よりイスラム教徒のほうが読み書きが出来るようになったと考えられています。イスラム教徒はコーランを芸術作品としても高く評価していたので、イスラム世界の中心地、バグダッドではカリグラファー(西洋における書家)やイラストレーターが多く集まる場所となり、これらの人々が作った写本は、美しさの点では西ヨーロッパの彩色写の他に並ぶものがないほど素晴らしいものでした。イスラム教徒が最盛期を迎えたときには、スペインからはるか中国国境まで及ぶ大帝国を築きます。そして、イスラム教の布教とともに各地に図書館を作りました。南スペインのコルドバには50万冊もの蔵書を備えた図書館があったといわれています。こうした図書館が移動する場合は、蔵書の輸送だけでも6ヶ月はかかったでしょう。しかし、イスラム世界で最大の図書館は「知恵の館」と呼ばれたバグダッドの図書館です。830年頃に建てられた「知恵の館」は研究センターでもあり、翻訳学校でもありました。ここにはヨーロッパやイスラム諸国、アフリカから学者や研究者が押し寄せました。蔵書の多くはコーランやイスラム教に関するものですが、数学や歴史、医学や哲学などの重要な書物もありました。また館内には、蔵書の保管や分類をする司書、新たに手に入れたギリシャ語やラテン語の書物をアラビア語に翻訳する学者、書き写す写字生、綴じて本にする製本係などがおり、購入する本を探すエージェントまで雇っていました。このような人びとを雇っていたのがカリフ(イスラム国家の指導者)です。カリフは、書き言葉を大切に思っていました。そのため、書物の取引が盛んになり、800年代の終わりには、バグダッドでは書籍商が100人はいました。ここで、話を本の売買へと移したいと思います。前回書いたとおり、当時の本は高価な羊皮紙に修道院の修道士たちが中心となって1冊ずつ書き写していました。当然、本の値段は高価なものとなり、写本は回を重ねるごとに誤字脱字、書き間違いなどがかさなり不正確なものとなっていきました。また、ギリシャ語などからラテン語への翻訳では、当然、翻訳ミスもあったでしょう。このように、同じ内容の本でも全く価値が異なった時代が中世でした。その時代の書物の取引の様子を描いたのが、私も愛読している支倉凍砂さんの『【送料無料】狼と香辛料(14)』(アスキーメディアワークス、2010年2月)です。 簡単にあらすじだけ書きますと、前巻での活躍で銀細工師フランに北の地図を作ってもらえることになったロレンス達は、これでホロとホロの故郷ヨイツまで行けると思ったのも束の間、再訪したレノスの町で禁書にまつわる思惑に翻弄されることになります。どうやらその禁書には、ヨイツを窮地に陥れる技術が記されているらしく・・・、と言った展開です。ここで出てくる禁書とは、教会が所有を禁じている異教の神の教えが記された本や、禁制の技術が記されたりした本などのことを指します。で、その本の内容をロレンスが書籍商のル・ロワから聞き出すと、それは灼熱の砂漠の国の言葉で書かれた鉱山の採掘技術に関するものでした。このような知識を記した本は、時に革命的な状況を生じさせることもあり、極めて高価な値段で取引されるのです。そんな感じで、本を巡る商売の冒険が繰り広げられるのですが、これは本文を読んでみてください。このように、書籍商は場合によっては学者たちより本に関する知識を溜め込んでいた場合があったのです。これも、「暗黒の中世」の側面ですね。一方、バグダッドの他に強力な権力を握っていたのは、東ローマ帝国、ビザンツ帝国です。その首都、コンスタンティノープルはバグダッドと同じ、文化の一大中心地でした。ローマの法規や法則を編纂したユスティニアヌス法典は、500年代に東ローマで作られたもので、ほぼ1000年にわたるローマ法規について取り上げ、説明と解釈がなされたもので、この後、多くの国々の法律の基礎となり、ローマ人が西洋文明に貢献した最高のものの1つと考えられえています。そのコンスタンティノープルは、壮大なアヤ・ソフィア大聖堂が建てられ、帝国図書館など重要な3つの図書館が建設されました。この帝国図書館は4世紀初頭に、古代ローマ帝国ではじめてのキリスト教皇帝、コンスタンティヌス大帝によって作られたものです。1453年にコンスタンティノープルがトルコ軍に占領されるまで1000年以上も存続しました。しかし、歴史の様々な場面で、ドイツ人、スラブ人、ペルシャ人、イスラム教徒、セルビア人に支配され、運命を迎えることになります。図書館が帝国と共に最期を迎えるのは、1200年代に西ヨーロッパからキリスト教の貴族や騎士が第4回十字軍としてコンスタンティノープルに到達したときです。町は侵略され、図書館の本はほとんど捨てられるか、価値のわかるイタリアの商人に売り飛ばされてしまいました。ビザンツ帝国は1435年についに一度だけトルコ人に支配されていますが、既に帝国は弱体化していたので、滅亡はそれほど一大事ではありませんでした。トルコ人たちは、数館しか残っていなかった帝国図書館の蔵書を、十字軍がしたように売り飛ばしてしまったので、その後100年間、ギリシャ語の書物の取引が盛んだったといわれています。一方、そのころイスラム教の大きな図書館も大半が火災や洪水、度重なる宗派対立の犠牲となっていました。それにとどめを刺したのが1258年のモンゴルの襲来です。バグダッドに侵攻したモンゴル軍は、1週間もたたないうちに、全ての図書館を破壊したといわれています。こうした破壊や崩壊もありましたが、東西の交流が促進されたこと、とくに十字軍の侵攻の2世紀の間には、利点がいくつか発生しました。その1つは、十字軍に加わった人びとがビザンツ帝国の領土や聖地に留まっている間に、西ヨーロッパでは失われていた手書きの写本や思想に触れる機会があったこと。そして、最初はバグダッドで、その後はコンスタンティノープルで、書物の取引が行われるようになり、多くの貴重な写本がヨーロッパに戻ってきたことです。今日知られているギリシャ語の書物の75パーセントは、ギリシャ語の原本ではなく、ビザンツ帝国の書物から書き写した、あるいは訳したものだといわれています。こうして、異なる文化圏で書物や思想が行きかうことで、ヨーロッパ人が長らく忘れていた古典の扉が開かれることになったのです。この意味で、ビザンツ帝国の崩壊は、かつての素晴らしい文明の悲しい終わりであり、文化が進展する時代の1つの幕開けでもありました。いわゆる、ルネッサンスの始まりです。こんな感じで、第2章「破壊と崩壊の暗黒時代」は終幕します。次の第3章「印刷機がもたらした黄金時代」についても、後々、長々とした紹介と解説を行いたいと思いますが、今回はこのくらいでこの本の紹介について、一旦終わりにしたいと思います。