あれから、2年。。。
必然的に訪れる「偶然」というのがあると思う。それが何かの「きっかけ」になり、後でふり返ってみれば、人生の転機だったりする。「偶然」を装って訪れる「きっかけ」は新たな展開への搭乗口のようなものかもしれない。」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」ということで、いつも気にはなっていたが日々の介護生活に翻弄されというよりも、その気になれずここで日記を書くことができなかった。しかし、なんとなく、ほんとになんとなくここに来て、もうどのくらい書いてないんだろうと見てみたらその日付は、2年前の明日だった。これも、また偶然を装った必然?朝、大切な友人と、このようなメールのやりとりをしたばかりだったので思い切って再開してみようと思った次第です。あれから、母、tocoは、回復期リハビリ病棟を経て入院先の病院に付属している介護病棟へと移り実にあれこれあったが食べさせれば刻み食を食べられようになり、支えがあれば歩けるようにもなった。発熱が1ヶ月ほど続いた事もあったし今年の初めには、心臓ペースメーカーの入れ替えもあった。この2年で、私は、介護の現場というものを家族という立場ではあるが身をもって体験した。もちろん、今も。。。介護病棟では、介護さんと呼ばれるヘルパーさんの人数が看護師さんよりも多い。正確な数は把握していないが現在、定員50人の入所者さんに対して介護さん16人、看護師さん10人足らず。みなさん、とてもよくしてくださるが何よりも体力勝負なところがあるので夜勤の多い不規則な勤務で体を壊す方が多く人手の要る入浴日の日勤の場合平常8人だが4人しか来られない日もある。入浴に時間がかかるということは食事の時間にまで影響がある。介助すれば口から食べられる入所者は食堂に集められるのだが食事を始めるまでにはベッドから起こす。席に着かせエプロン装着。お茶配り(ストレートか、とろみ付きかその把握)またその準備がありとりあえず全員を席に着かせても大あわてで、食事の度に洗うエプロンを干場から取り込み種分けし、装着し、作ったお茶を配り、必要な方には介助し飲ませるという仕事がある。食事はもちろん給食で外部の業者が決められた時刻に運んできてまた、きっちりと回収してゆくので待ったなし。入所時は、介護さんを手伝っては邪魔になるかもと思いおとなしく母の世話だけしていたのだが慣れるにつれ、入所者の方々とも顔なじみになり自分で責任のとれる範囲でお手伝いをするようになった。私の一日は、朝 7時半~1時間ほど(食事介助)昼11時半~1時間ほど(食事介助) 15時~1時間ほど(父を連れて水分補給)夕17時半~1時間ほど(食事介助)毎週火曜日は9時20分~歯科衛生士さんの補助。これが基本的なスケジュールで病院へ出向いている。母はもう、全くといっていいほど言葉を発しなくなり意志の疎通は全くできなくなった。特に、顔周りを触られるのを嫌い、手を出すので水分補給や食事介助は、手間がかかるので本人に気持ちよく食べさせるためにはどうしてもつきっきりで食べさせる事のできる家族という存在が欠かせないのだ。ま、たまには、介護さんにお願いするのだが食事介助と書いても食事の後のハミガキやベッドへの搬送、寝かしつけまでできて初めて完了である。母は、特にハミガキに手こずる。幸い(というんだろうか)自分の歯が20本以上残っているので食べかすが残らないように掃除するのはかなり大変。しかも、うがいが出来ないので私が体得した奥の手でなんとかうがいもどきをさせているという状況。病院でも、よく家族あってのtocoさんですねと言って貰えるのが励みになる。今や、私は、食堂のベテランさんになり介護さんからもちょっとは頼られる存在になってしまった。もうまったく、いろ~んな人がいるから毎日がドラマのよう。これからは、そんな様子を書いていきたいと思っています。