カテゴリ:政治、経済、社会、歴史
「自由」の意味
ひところ話題になった「名古屋トリエンナーレ騒動」。思ってしまうのは、全般に「自由の行使」という意味を、はき違えているのじゃないかということでした。この騒動では、「表現の自由」があたかも人間の「所与の権利」のごとく扱われ、例によってネット上の炎上や威迫によって、結果として「官憲が不当な圧力を加えた」みたいな報道が、当然至極のように流されてましたね。 しかし、さしたる検討もなく「自由を無限大に行使」しようとすれば、どういう結果を招くかという点では、いつものとおり驚くほど(あるいは情けないほど)退屈な事例となってしまいました。 「トリエンナーレ騒動」で不思議でしかたがないのは、主催である芸術監督や展示物の製作者たちは、自分たちが唱導したい「自由な表現」を行えば、それと対極の位置にあるであろう、「他者」たちの「自由な表現」(あるいは行為)も同時的に認めることになるということに、まるで意識がいっていないという点です。要は「リスクを自ら取る」気配が、はじめから感じられないということでしょう。あたかも自分たちだけが、「特権的に自由という檻に守られている」かのようなそぶりで、「表現の自由」を行使するというのは、考えてみればずいぶん滑稽な図柄じゃないですか。 この二つは厳密に「等価」であって、自身の行為に対して、一方の「自由」が制限されるのであれば、それは少し考えればすぐ分かることですが、相手方の自由を奪っているという点で、真の「自由の行使」とは言えないでしょう。 「自由の行使」には厳密に、常にそれと等価のリスクとコストが伴う。それは何も「威迫」とか「圧力」といった下世話なリスクではなくって(そんなものは「表現者」にとって、何のリスクでもありません)、自身の表現力に掛けるリスクということです。この人たちは「この表現で自身の伝えたいことを、本当に伝えられるのか?」というような、検討や葛藤をどれほど重ねたのだろうかという気がする。 真の検討や葛藤があれば、先のような馬鹿げた威迫や圧力はなかっただろうし、かりにあったとしても、それだけの身銭を切って、わが身の身体を本当に賭しての展示物であるなら、堂々とした反駁も主張もできたはずなのですが、ずいぶんあっさり引いてしまったじゃないですか(それもいかにも他人のせいであるかのような素振りで)。ということは、最初からそんなリスクは取る気などなかった、と言われてもしかたがないんじゃないか。となると、この人たちの「表現者」としての資質も、疑いを入れざるを得ないということになってしまう。モーツァルトや漱石など、文字どおり「身体を削って(身銭を切って)表現に掛けた」わけでしょう。 さしたる自己検討も行わず、ごく手軽に「表現の不自由」を表現しようとするから、こういう結果を招くのです。変な例えですが、仮に「偽の少女像」に対置するに「ベトナムの慰安婦像」、天皇の肖像を焼く写真の正面に「文さんの肖像を焼く写真」を展示したら、もう少しまともな問題定義が出来たのでは。もちろん、あっちからもこっちからも、文字どおり十字砲火を浴びたでしょうが、表現者としてはそれこそ本望じゃないですか。要はこの程度の「表現」には、このレベルの反発しか返ってこなかったということです。 真の「自由の行使」には、常にその行使のレベルに対応したリスクとコストが掛かる。そんなこと青山さんの在りようを見ていれば、すぐ分かることです。「ほかの何者からも独立した、真に自由な立場と言説を確保する」、つまり真に「自由」であるために、どれだけ危険と身銭を切らねばならないか、ということをです。 しかし、だからこそ意見や世界観に若干相違があるような私のような人間にも、この人の声は確かに届く、これって大事なことじゃないですか。 肝心なのは、日本では相応のリスクとコストを、「わが身が引き受ける覚悟」があるのであれば、それこそ何をやっても自由の国だということであって、そうでない国は世界中にごまんとあるということでしょう。それを当然の権利のごとく、手軽に持ち出すのは(ネットの書き込み欄じゃあるまいし)止めてもらいたいというか、もうちょっと頭を冷やしてよく考えてみたらいかが? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.08.21 23:04:31
コメント(0) | コメントを書く
[政治、経済、社会、歴史] カテゴリの最新記事
|
|