サリエリの独り言日記

2021/01/20(水)11:11

エレクトーンというガラパゴス 26.

エレクトーンの日(40)

「第九」三昧 2.  さて、もう一人はというと、このブログではなぜか触れて来なかったのですが、「aki-Electone solo」という動画を8年近く、精力的に配信されている方で、私は3年ほど前に、この人の「TWILIGHT IN UPPER WEST」を知り、そのしゃれたセンスにいっぺんに惹かれてしまいました。  そのときした私のコメントとは、 ― 電子楽器なら誰が弾いても同じ音と思いきや、これなどを聴いているととんでもない。設えられた効果音を抑え目にして、まるでピアノとサックスが対話しているかのような演奏がとても個性的、中間部のピアノソロは耳コピということですが、いっそ倍ぐらいにアレンジされたら、どんな豊かな楽想が沸いて出ただろうと、あらぬ想像してしまいますね。  好い演奏とは、私など「繰り返し聴ける」かどうかということに尽きるなどと、勝手に思っているのですが、この演奏は何度も聴かせていただくことになりそうです。なぜそうなるのかと言えば、結局譜面に託された作曲者の「歌心」のようなものを、演奏者が真摯に受け止め、「私にはこう聴こえました」という仕方で、聴き手に届けようとされているからでしょう(想像ですよ)。  不思議なもので、そういう敬意のこもった演奏は何度でも聴きたくなる。なぜならそういう感応をした演奏者の宿す「歌心」は、一聴しただけではとても分らないからです。― と、相変わらず力んでいますが、要は826askaさんの同曲の響きと、あまりに違うので驚いたということです。その後このakiさんの動画を数多くフォローするにつれ、私のエレクトーンという楽器に対する捉えかたには、若干の変化があったように思う。  ひらたく言えば、この楽器には「演奏する楽しみ」のほかに、自分流に「アレンジする楽しみ」がほかの楽器にくらべて多量にあるのじゃないか?ここ最近のakiさんの動画を聴いていると、市販の楽譜ではあき足りず、もっぱら耳コピで自分流にレジストも作成されて演奏されているようです。と、気付けば、他のエレクトーン奏者でもかなりの方が、自作の楽譜をオンラインに乗っけておられる。聞くところによれば、エレクトーンの楽譜作成というのは、その多様すぎる音色ゆえに、膨大な手間がかかるものの如くで、演奏者としてはそれも見てほしいというところもあるのでしょう。  とはいえ、こういう「音楽の楽しみ方」もあるのだとすれば、自称クラシックファンの私としては、かなりショッキングな事態とならざるを得ないのです。前にも触れましたが、クラシック音楽は原則として「原譜第一主義」で、作曲者の残した譜面を忠実に指定どおり演奏するのが、まず基本にあると特に第二次大戦後言われてきたと思うのです。厳密に譜面をたどりながら、そのごく制約された中から、いかに迫真的な「響き」を取り出してみせるか?戦前まではある意味、そうした規制はおおざっぱで、原譜にはない音が演奏家によって加えられたり、省かれたりしていたようです。  これは前にも触れましたが、思い切り自由に歌わせているようにみえるカラヤンでも、原譜に記された音と楽器以外は絶対に使いませんでしたが、ワルターとかフルトベングラーなどは、この「第九」終楽章の冒頭にしても、ベートーヴェンの時代出なかったはずのトランペットの音を、景気よく吹かせてますね。作曲家が「こうあるべき音」と望んでいたとしても、当時の楽器がそれに追いつかなかった場合、今の演奏家はどうあるべきか?  このあたり、歴史の改ざんというより、「今の都合」による過去の歪曲というのが、人類にどういう惨禍をもたらすかという深い反省が、何も枢軸国側だけでなく連合国側にも、二度の世界大戦後の空気としてあったのだと私は思う。それと並行して歴史資料の校訂や批判が、かなり厳密かつ科学的に行われるようになって、軽々に「歴史」を物語ることには慎重にならざるをえない、ということもあったでしょう。  こうした風潮は、クラシック音楽の世界にもあって、「原譜に付されていない音は、やはり使うべきでない」というのが、今どきの流れなのでしょう。  しかし、エレクトーン業界はそうしたクラシック界の重たい制約からは、かなり自由というか、そもそもエレクトーンという楽器にとって、クラシック音楽はその包含する広大な楽器のキャパのごく一部に過ぎない。したがって今のところ、この楽器はそうした「歴史の反省」をするには、まだ早すぎるということになるのでしょうか?  前置きが長くなりました。ではakiさんによる「第九」第4楽章を聴いてみましょう。

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