女性なるもの 22.
神尾真由子 2. インタビュアーのときに愚問と取れるような質問に対しても、辛抱づよくゆっくり答える彼女の姿は、かつてのイチローや中田英寿とそっくりです。イチローは最近では愚問であることを隠そうともせずに、まともに答えず茶化した答えをしたりしていますが、並みの記者では歯が立たないのでしょうね。ときに彼らが芸能ネタ的にバッシングされるゆえんです。 神尾さんにとってもこうした質問に対して辛抱して答えるというのは、もっとも苦手の部類だったでしょう。もう少し時を経て、他人に遠慮会釈しなくなったときこそ、彼女の真価が表れてきそうです。マスコミに愛想を振りまきすぎて(気を遣いすぎて)、自からのパフォーマンスをダメにしたというケースは、スポーツのアスリートに限らず芸術方面でもよくあるのです。 それでも彼女の性格の強さは、フィジカルな音楽の強さそのままに、インタビューにもよく現われているので、「ヴァイオリンをやるのは、すごいと思ったことが、ヴァイオリンなら自分でそれを再現できるから。」とか、「批評は関係ない、私は私なので。」「四十になっても先生がついててくれるわけじゃないので。」「先生(ベロン氏)の怒りが分からないという意味で、(指示とは)違うほうを弾いた。」といった言葉に端的に現われているので、これは子供時代からの「強いのが好き、逆らうのが好き。」といった根生いのものから来ているようです。 受け答えを、まずYes,No,の結論から入るというのは、早くからの海外留学で身に着けたもののごとくですが、基本的なスタンスはもっと以前からのものでしょう。これら性格というか個性を正確に見抜いて、それを矯めずに大きく羽ばたかせた工藤、小栗夫妻ほかの皆さんの指導はたいしたものですね。 彼女の言葉でいくつか印象に残ったのは、音楽に関しては例えば、「客のためでも自分のためでもなく、そこにある音楽を、ボロくなった絵画をリタッチ(補修)するように、再現している感じ。 主役は曲であって、演奏とは作品を再現するもの。」 ヴァイオリンに関しては、「深味のある、甘い音色ということではチェロにはかなわない。(ヴァイオリンの)音色の特色は、もっとムキ出しの生々しい感情表現、美しいだけじゃなく、金属音のような不愉快すれすれの部分にあると思う。」これは今どきの音楽観をよく表現しているので、かつて楽音全盛で夾雑物のない、澄んだ美しい響きだけを、いかにして奏するかが重視された時代とは違い、ヴァイオリンの楽器としての表現力の特質を、よく衝いていると思います。 彼女の演奏を聴いていると、この言葉どおり、まず正確な楽譜の再現という基本的な裏付けがあって、そのうえでこのヴァイオリンの表現力の特性に、とことん迫っていくというようなところがあるのです。 前にも触れましたが、チャイコフスキーのこの協奏曲は、曲芸的な演奏技術が、全体に散りばめられているのですが、彼女の演奏を聴いていると、その音符が一粒一粒たどれる感じで、決して音が不明瞭になるとか、音程が不安定になるということがない。競演した指揮者のJ・ジャッドが言ってましたが、「音楽のページをめくるような感じ。」というのは云いえて妙です。 そのうえでヴァイオリンの大きな特色である、露わな金属的な軋み音、かつて「どんなヴァイオリニストが弾いても、一箇所か二箇所軋む」といって敬遠された音が、不快感すれすれの境界面で絶妙にコントロールされて、実にスリリングな演奏を聴かせる。 このあたり、「100%音楽に入っているわけじゃないので。」という彼女の演奏のスタンスに関係あるようで、「弾きながら、別の耳から音楽が聴こえてくるときが最高。」とは、たんなる熱演とか集中力とは、ちょっと違う立ち位置で、音楽に対しているように思えます。― つづく ―