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オキナワの中年

オキナワの中年

果報は海から/ 又吉栄喜

1998/4/24沖縄タイムス
[読書]/明治の文豪に教えたい作品/果報は海から
 又吉栄喜氏の「豚の報い」についての評価の中に、女性は生き生きしているのだが男性の影が薄い、というようなものがあった。「果報は海から」所収の二作において、氏はそれを弱点として克服するというのでは無しに、むしろ自覚的な方法として確立している。

 いずれの作品も二十代の男性、しかも大学で青春を過ごした(している)、ちょっとしたインテリを主人公としているのだが、これは本土の読者と沖縄とを結ぶための仲立ちという側面が大きい。作品の真の主人公は、彼らの目を通して描かれる女性たちであり、さらにはその背後にある歴史・自然を含みこんだ共同体そのものなのである。「果報は海から」の和久は財産家に入り婿(むこ)し、徒労感の中で日々を過ごしているのだし、「士族の集落」の秀光は「薩摩」と不倫したあげく捨てられた母を、冷たく追い出した集落を憎んでいる。


 自らを縛る家もしくは封建的な郷土と、半ば目覚めた青年。この図式は近代文学が好んで素材としたモチーフであった。しかしここから先が全く違う。彼らは共同体を乗り越え自立するわけでも、挫折し屈服するわけでもない。このような解決があったのか、あるいはこのような解決を可能とする世界があったのか、明治の文豪たちに教えてやりたいような気すらする。そもそも個と共同体、近代と前近代といった二分法自体を乗り越えたところに、沖縄の豊かな可能性があるのだ。そして二つの作品は「いやし」という流行(はやり)ことばすら作り物めいて見えるほど、この世界をごく自然にかつユーモラスに描き出している。


 ただ沖縄県民の一員として残念だったことは、沖縄においてすら周辺離島、山原という設定無しにはもはやこのような世界が成立しないということすなわち大和化の問題と、そろそろ中央誌でも、門中や御嶽ぐらい注釈ぬきでもよくはならないかすなわち沖縄文化の認知度の問題であるが、こんな事は既に作者自身がより切実に意識している事柄であろう。




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