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オキナワの中年

オキナワの中年

大城立裕「水の盛装」

新報文芸/大野隆之/大城立裕「水の盛装」/意欲的な実験小説/二元論の世界観問い直す


 大城立裕の最新作『水の盛装』(朝日新聞社刊)を読んだ。今後は組踊に集中し、小説の引退は近い(本紙六月十日)と述べる大城だが、この作家はよい意味で円熟というものを知らない。この作品においても、また新しい実験を試みているのである。
 作品は宮古池間の女性カメラマン「千寿」と、珊瑚の研究者として島に滞在する「鳴海」との恋愛、結婚を軸に、巨大珊瑚礁八重干瀬、サシバ伝説、カンカカリヤ(巫女)、トライアスロン、といった宮古島の風物が次々と描かれる。千寿が乳がんを患い闘病する中、鳴海がトライアスロンで完走にかける部分で、物語はクライマックスを迎える。
 このように要約してしまうと、観光案内を盛り込んだ恋の物語のようだが、この作品の真価はそこにはない。仮に単なる恋愛小説ならば、ベテランの筆により、もっと平易である意味もっと感動的な物語を作り得たはずなのである。
 この作品を分かり難くしているのは、一つは乳がんや、海洋生物についての極端に専門的な記述である。トライアスロンの時間・距離等についても過剰なまでに厳密な数字が書き込まれている。これらはあたかもその分野の解説書を読むようで、面食らう読者も少なくないであろう。その一方、カンカカリヤの素質を持つ千寿に見える生き霊や、伝説など、いわゆる非科学的な出来事が、現実と同様の実体として描かれている。
 一見水と油とを強引に混ぜたようなこの作品の真意を、カメラマンである千寿に対する、科学者鳴海の言葉が代弁している。写真は「科学と芸術をかねている」、そして「島の信仰のありかたを写真にするとどうなるだろうか」と問いかけるのである。この写真を小説に置き換えれば、この作品の特異な仕組みが理解されるだろう。
 近代文学の初期の段階で、科学と文学との関係が議論の対象になったことはあった。しかしそれは深化されず、いつの間にか科学と文学のなわばりが決められ、お互いが敬遠もしくは軽蔑をしあうような関係になってしまった。ことに文学の側が科学に言及することは、ハードSFのような特殊なジャンルを除けば稀で、科学などに関心を示さないのが文学者としては高級だ、という理解すらある。
 この作品ではそのような二元論を相対化し、科学を生み出しあるいは享受するのも人間だし、伝説を創り出さずにはおれず、幻影を見てしまうのも人間だ、というごく当たり前の前提に、立ち戻っている。それゆえ霊的な理由により、海をさまよいかける鳴海の命を救うのが、きわめて現代的でかつ世俗的なテクノロジーである携帯電話なのであり、また逆に現代医学の粋を集めたがん治療を施した後、医師は患者に「転移」という「幽霊」を探すのである。
 もう一つのこの作品の特徴は、空間と千寿の身体との交感にみられる。女性の身体を海になぞらえる、という発想はそう目新しいものではないが、人工物である灯台をも含み込んだ所に特色がある。これは先に述べた、科学と芸術との問題の延長上にある。自然と人工の対立もまた、両者を含むような独特の世界の要素としてとらえ直されるのである。作中でフクナス湿原の工事をめぐって対立があるのだが、これもまた開発と自然といった対立ではない。この作品では従前のさまざまな二元論的な世界観をご破算にし、そこからもう一度人間の営為をとらえ直す、という姿勢に貫かれているのである。
 二元論という点で言えば、沖縄と「ヤマト」という従来の二項対立にも、新たな解釈が施されている。従来沖縄人と大和人との結婚というモチーフには、文化摩擦、あるいは政治的対立が判で押したようにつきまとっていた。そこにおける苦悩は、ある意味わかりやすく、小説にしやすい。しかしこの作品では、あえてそのような対立を描かなかった。千寿も鳴海も沖縄、「ヤマト」というカテゴリー以前に、女と男として結びついている。この点は沖縄の小説としては実はかなりの冒険であり、既に崎山多美の批判がある。またその背後には、以前からある、政治と文学とをめぐる大城批判があるのだが、この問題については、稿を改めたい。
 以上のようにこの作品は、恋愛小説と言う枠組みの中に、作者の世界観、文明観、芸術観を盛り込んだ、意欲的な実験小説である。長年にわたる土俗を描くことで普遍を描くという課題に、あらたな方法意識を盛り込んだと言ってもよい。
 ただし、その実験が多くの読者に理解され得るか、という点については疑問が残る。本稿におけるこの作品の読みは、作品冒頭からメモを取るような、きわめて意識的なものである。通常の読者はそのような読み方はしない。
 例えば本土からやってきた鳴海の学生「生島」の生き霊が島に止まる、というようなモチーフは、沖縄・大和の対立を超えた、人間存在のありようと言う観点から初めて理解できるのであって、素朴に鳴海と千寿との関係、あるいは千寿の病状に関心を持って読む場合には、蛇足としか思えないだろう。また先に述べた、独自の科学観にしても、小説を人間ドラマとして享受しようとする場合には、どうしてここまで詳述するのか理解しにくいはずで、その結果、本当に面白いのは、最後のトライアスロンの場面だけだ、ということにもなりかねない。
 現状では感性的に読む部分と、理性的に読む部分との距離がありすぎるように思うのだ。かつての「亀甲墓」の同時代評のように、これはまさに実験的な小説の宿命だといえる。今後、科学知識も、伝承も、恋愛をも全くの同一線上でとらえ、大きな枠組みで文化と人間を描くというタイプの作品が書き継がれるならば、この作品は嚆矢(こうし)として重要な意味を持つが、そうでない場合、孤立した作品になる恐れも否定できないのである。




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