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カテゴリ:テレビ
TBS「情熱大陸」、今回は俳優オダギリジョー。
以前から、好きな俳優さんの1人です。 さまざまな映画で、主役だけでなく脇役もやる。 正統派ヒーローもやれば、変人もやる。 その固定されないスタンスが魅力です。 もちろん、容姿も好きですが、とらえどころのないキャラクターも気になってしまう人です。 何度かテレビのトーク番組で見ていても、いまいち掴めないというかんじ。 恐らくインタビュアーも、大抵のゲストに対しては、事前の調査を踏まえて「こう切り出したら、こういうコメントが返ってくるだろう」と狙いをつけて対話をするのだろうけど、彼の場合はその予測をするりとすり抜けてしまう。 見ている方もある程度、テレビ的受け答えを予測してるから、こういう流れになるだろうと思いつつ見ているのだけど、なんだか肩透かしを食う。 私にとって、オダギリジョーはそういう人です。 で、今回もそんな感じ。 やはりとらえどころがない。 普段の「情熱大陸」は、ターゲットの現在打ち込んでいるプロジェクトを中心に、それに向かっていくターゲットを追って行くという流れで番組が作られてます。 例えば、スポーツ選手なら、大きな大会や試合に向けての準備する姿。 演出家なら、近々公演初日を迎える舞台作りの過程。 音楽家なら、やはり公演を迎えるまでの音楽的葛藤を。 俳優なら、映画や舞台の役作りをする姿。 そうして、表舞台の裏で苦悩する素の姿を描きつつ、最後に試合なり公演なりの一般に見せる表の姿を映して、スポットライトを浴びる彼らの情熱の成果を垣間見せてくれるわけです。 だけど、今回は、それがない。 何かプロジェクトに向かって懸命に努力する姿ではなくて、映画の仕事と仕事の合間の4ヶ月間の彼をなんとなく追っているかんじ。 スタッフも懸命に彼がどうゆう人間なのか、キーワードをもとに映し出そうとしているのだけど、たぶんスタッフの「こうゆう形で彼を撮っていこう」という意気込みを、オダギリジョー自身が、するりするりとかわしていっているような印象です。 映画をつくるように、彼自身がこの番組作りに参加している。 自分自身が「これだ」というひとつの切り口から語られたくなくて、特にスターという肩書きをつけたくなくて、そうしようとするスタッフの番組作りに反抗しつつ、寄り添っているような、監視しているような……。 だから、見ている方も、何だかよくわからないで、ただ画面を追っている形になります。 自分自身が透明でありたい、という当人の願望通り、ふわふわと流れるような30分になっていました。 たぶん、誰からも語って欲しくないんだろうな、方向づけられたくないんだろうな、定義づけされたくないんだろうな、ということなんでしょう。 さまざまな映画で、さまざまな役を演じるあたって、素の自分に色をつけたくないということも漏らしてました。 すべての役においてリアルを追及するために。 だから、スターのイメージは欲しくないと。 おまけに番組の編集作業にまで、彼は顔出していました。 そんな人は、ほかにはいないんじゃないでしょうか。 なんだか、番組感想まで、自分で何を書いているのかわからない、ふわふわした内容になってしまいました。 ……彼にとっては、ほんとはそんな感想すらいらないのかも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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