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江戸東京ぶらり旅

江戸東京ぶらり旅

ペリー来航

分かる江戸(10)ペリー来航


 1853年のことでしたね,浦賀にペリーが軍艦四隻を率いて姿を現したのは。びっくりしましたね。1837年にはアメリカ船のモリソン号を追い払ったときに幕府はさんざん批判されたのに,批判した人たちを憎むだけで,現実に対応しようとしなかったのですね。近代兵器で後の時代に備えるなんていう発想は一部にはあったのですが,主導権を握る人たちにはなかった。あくまで鎖国が可能だと安易に考えたのですね。だから軍艦が浦賀にやってきたのを見て慌てましたね。世の中知らずとはこういうことを言うのですね。今の政治家も教育者も世界を見ておかないといけませんね。インドやベトナムで今何が起きているのか,イスラエルはどうなのか・・・世界の中の日本という視点が必要ですね。

      


 それで,力を見せつけられたのではたまらない。翌年もペリーは来航したのですから,もう屈服するしかない。それで「日米和親条約」の締結ですね。このとき老中の阿部正弘は,今起きていることを京都の朝廷に報告,諸大名などからもどうしたらよいか意見を聞いたのですね。これで朝廷も実力ある大名たちも勢いづいてしまった。それなのに今度は大老の職にあった井伊直弼(なおすけ)が,朝廷の許しを得ずに「日米修好通商条約」に調印してしまった。それに将軍には一橋慶喜を是非頼むよ,という意見に耳を傾けず,徳川慶福(よしとみ)つまり十四代将軍家茂(いえもち)に決めてしまった。

 幕府はアメリカばかりか,イギリス,フランス,オランダ,ロシアとも条約を結びましたよ。神奈川,長崎,新潟,兵庫,函館を開港,自由貿易を認めたのですね。でも日本には関税をかける自由がなく,相手の国の人が日本でなにかをやらかしても裁判ができないという,不平等条約だったのですね。これだって日本が軍事力を持っていなかった,つまり現実問題として相手の言う通りにするしかなかったからなのですよ。

    


 しかしです,朝廷を無視するとは何事だ,しかも鎖国の方針を180度変えるなんて誰が認めたのだ,と幕府の強引なやり方に反対する武士(公務員)だってたくさんいたのです。「大砲で攻められたら占領されるしかないのだぞ。だったら,どうしたら相手を黙らせることができるの?」という具体的な問いには答えられないくせに,理想論者というのは批判だけはするのですね。それで,こんなやつらにつべこべ言われたくない,と思ったのが井伊直弼,多くの反対者を処罰,これが「安政の大獄」ですね。それで反対派はますますエスカレート,井伊直弼を江戸城の桜田門外で暗殺したのですよ。

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