権之助坂<目黒>権之助坂目黒と言えば目黒不動や目黒雅叙園,庭園美術館のあるところですが,品川区上大崎のJR目黒駅を出てすぐ,目の前の一本向こうの広い目黒通りが,右方向へ下って,目黒川に架かる目黒新橋へ向かう坂が権之助坂です。でも権之助って誰のことでしょう。 権之助は,このあたりを荒し回っていた悪党の名前,という説があります。それなら渋谷の道玄坂と同じような名前の由来になります。一方,中目黒に菅沼権之助という名主がいて,この人名が坂の名の由来になったという説もあります。 目の前の交差点の斜向かいに行人坂という細くて急な下り坂がありますが,ここがもともとの道路。坂の下には目黒川が流れ,ここに太鼓橋がかかっています。でもこんなところを荷物を持って,あるいは荷車を押して上り下りするのはとても大変。目黒不動尊への帰り道も,この急な坂を息を切らして上ったのでしょうね。誰にとっても遠回りしてでも避けたい坂だったのです。といっても,車のある現代でも,坂の下の住人は権之助坂を使うなんてことはしないで,一生懸命汗を流しながらでも歩いていますがね。とにかくここを我慢して上る方が目黒駅までの距離は近い。これは余談ですが・・・ そこで名主である菅沼権之助は勾配の緩やかな坂(だから「新坂」と呼ばれた)を切り開いて,太鼓橋の上流に新しい橋(だから「新橋」)を架けて村人の望みを叶えてやったのですよ。でもこれがまずかった。徳川幕府の政策では,街道は敵が攻めにくいようにわざと急な坂を選んだり,上智大学の近く,紀尾井坂の坂上にあるように筋違いにつくったりと,あれこれ工夫したのです。庶民がどれだけ便利に,なんていう配慮はしませんでした。だから権之助がおこなった道路の整備は当然幕府の許可なしにはできない工事だったのですが,権之助はこれをしなかったのです。つまり無許可道路。 権之助は処罰されることになり,刑場に引かれていく途中,この坂の上から我が家を振り返ったとのこと。村人は彼に感謝の意をあらわすため,やがてこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったそうです。 でも,この逸話は作り話としては結構ですが,一個人が,それも名主たるもの幕府に相談もしないでとは,とても考えられません。「費用はあなたが持つならいいですよ」といった条件付きでなら幕府も許可したかもしれませんね。真相は分かりませんが,今では交通量の多い権之助坂を歩くときには,こんな話のある坂なんだ,ということを知っているとまた違いますね。
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