『白い巨塔』田宮版熱烈批評! 第2回
(つづき)ここで、財前と一緒に「座る」人間の顔ぶれを紹介してみよう。そこに「座る」人たちの絢爛豪華な芸名にはため息が洩れる。燦々と輝く芸暦を重ねてきた役者たちの贅沢な起用は、至高のキャスティングと呼んでも大袈裟ではないだろう。まず、財前の舅役曾我廼家名蝶の色香の匂う、粋な浪花の遊び人ぶりはどうだろう。ふたこと目には、「金なら何ぼでも出します!」が口癖の何処かしら憎めないユーモラスな一面を持つ、艶のある粋人ぶりは到底、西田敏行の及ぶところではない。茶菓子を口に頬ばりながら、「彼女の銀行の口座番号を教えてや。マンション代を振り込んであげるわ。あんたの月々のお手当もわしが払ってもいいんやけど、それでは、あんたがあまりにも甲斐性なしになるよって、それは遠慮しとくは」と含み笑いをしながら、セリフをしゃべる名蝶の演技は、まさしく名人芸である。そして、彼の医師会仲間の「座る」面々の彩り豊かな個性にも触れておこう。主に料亭の座敷で「座って」繰り広げられる、一癖も二癖もあるアクの強い芸達者たちの和話は、まさしく超一級のお座敷芸である。ぬるっとした海坊主のような不敵な面構えの医師会長役金子信夫が、顔を歪め眼をギョロリと剥きながら、杯の酒をグイと呑み、台詞を言うさまには、ドス黒い腐臭が染み付いているようだし、間部外科病院院長で市会議員も勤める渡辺文雄は、中年太りの腹を窮屈そうにスーツで包み、趣味の悪いネクタイをぶら下げ、恩師である東教授に土下座し、「財前君を次期後任教授にご推薦願えませんか!」と汗が噴き出さんばかりの芝居を打ち、東から「君を失望させない返事が出来ると思うよ」と言わせたかと思うと、東が退席するやいなや大きな溜め息と共に背広を脱ぎ去り、座敷に胡坐をかいて座ると、ネクタイを緩めビールをいっきに飲み干す。このあたりの演技の呼吸や間には舌を巻かざるをえない。渡辺文雄に限らず、戸浦六宏や小松方正といった大島組の面々は、濃密で脂ぎった状況にも、何の違和感もなく収まってしまう。彼らは勿論、小劇場の役者たちとは発する磁力がまったく異なるし、新劇の役者の匂いとも違う。存在自体が胡散臭い、そんなはらわたの腐った臭いをあたり一面に撒き散らしている。映画界からは、往年の大スター佐分利信が味のある存在感を滲ませる。東京での学会に出席した東は、その夜、佐分利信演じる東都大学の船尾教授を都内の料亭に招く。自分の母校の後輩教授でもある船尾に後任教授の推薦をお願いするためだ。渋る船尾に、東が「どうか宜しくお願いします」と頭を低く下げた瞬間、船尾の目がギロりと大きく剥かれ、顔に精気が宿る。その戯画的なアップのカットに佐分利信の表情が見事に嵌まっている。鵜飼医学部長役の小沢栄太郎は、笑って見せることで狡猾な人間性を表現してしまう。教授選挙の布石として、財前から高価な絵を贈られた鵜飼は、財前を呼び出しその真意を問いただすと、「ようは、人徳の問題だよ!人徳の」と言い放ち、「アハハハハ!」と高笑いをしてみせる。普段は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、あごを突き出し、はすに構えた顔で眼だけを動かす演技に徹している小沢栄太郎が高笑いをする場面がもう一度ある。鵜飼の腰ぎんちゃくで産婦人科の葉山教授役の戸浦六宏が、「鵜飼先生は、どうしてそんなに財前君のために一生懸命なのですか?」と尋ねる場面である。鵜飼は答える。「君ほど目端の利く人が、そんなことも分からんのかね?すべては、この僕自身のためだよ。アハハハハ!」と身体を震わして哄笑するのだ。小沢栄太郎は、笑える役者なのである。一方、良心を偽善で纏う中村伸郎は、含み笑いを浮かべる。教授選挙の際にと、胸中にしまいこんでいた秘策を披露し、周囲を驚かせる。「私は棄権させて戴きたい。私のふたりの弟子が骨肉相食むのを見るにしのばず、かといって私はそのどちらにも投票することは出来ません。私には、棄権しかありません」と立ち上がって、うつむきかげんに発言する東に、病理の大河内教授はじめ居並ぶ教授たちは感動を覚える。退席した東は、教授室の椅子に腰掛け、去りぎわに加藤嘉演じる大河内教授が洩らした「さすがは、東君だ」と言う言葉を思い出し、ほくそ笑む。自分の一票を放棄する代わりに同情票を集める目算が的中したからだ。学士院恩賜賞を受賞し、学問的業績にも優れ、人格的にも高潔な大河内教授には、純粋すぎるがゆえに、東の偽善が見抜けない。それにしても、写実的リアリズムの演技をさせると新劇の名優はさすがに巧い。たとえば、加藤嘉は、ほぼ同時期に映画『砂の器』で加藤剛の父親役で、みすぼらしいライ病患者の役を演じているが、陰惨なその姿は、とても毅然とした孤高の老教授を演じている加藤嘉と同一人物とは思えない。また、その当時、清純で気品溢れる女性像を一身に背負ってきた感のある島田洋子は、その魅力を『白い巨塔』でもいかんなく発揮する。医事裁判で、大学の圧力にも負けず、決然と患者側の証人を引き受けた里見に、深い敬愛の念を抱く東の娘佐枝子役の島田洋子は、東に悲痛な表情で訴える。「里見先生は、どうなさればいいの?大学に残って研究を完成させてほしい。でも、里見先生らしく真実をありのままに述べてほしい...」東が口をはさむ。「言ってることがよく分からないね」「私だってよく分かりませんわ。お父様の責任よ!権威主義で塗り固められた大学を一度だって改めようとなさいました?むしろその権威の上にのかってらしたのよ!だから里見先生のような純粋な方が...」と涙ぐむ。東の心の中を微かな予感が走る。「佐枝子、おまえ......」その対極にいるのが、太地喜和子演じるバーのホステスけい子である。彼女も財前同様、貧しい家に生まれ家族を知らない。人生の辛酸をなめることで、開き直って生きるしかないことを悟った女性の強さを魅力たっぷりに表現する。佐枝子のような華麗な学者一族に生まれ育ったお嬢様とは無縁の世界に生きる女性のあくの強さをとしたたかさ。そして、ときおり見せる淋しさ。財前と彼女は似たもの同士なのである。五郎のまえで、椅子に賭けたり座ったりを繰り返し、「アハハハハ!アハハハハ!」と妖艶な香りを撒き散らしながら、甲高い高笑いをしたかと思うと、次の瞬間、眼が据わり、鋭利な刃物のように冷静な口調で台詞を吐く様は、あの杉村春子を髣髴させる。晴れて教授となった財前の未来は、順風満帆のように思えたが、思わぬところで躓いてしまう。誤診裁判である。高橋長英演じる柳原助手が、総回診の際に遠慮がちに述べた、「断層撮影の必要はないでしょうか?」の言葉を叱りとばし、また里見の再三にわたる申し出も無視して行った手術は完璧に見えたが、里見の、癌が肺に転移しているのでは?と言う危惧が的中する。高橋長英演じる柳原医師は、まじめで地味な学究肌の人間で、医局では浮いた存在だったが、裁判が開かれるおかげで表舞台に立たされる。財前の重要な証人となった彼は、財前と一緒に「座る」立場の人間になる。だが、気弱で良心的な彼の心情を象徴するように、財前と座っていても身の置き所がないため、常に居心地が悪く、「座っている」姿もぎこちない。かといって、里見のように決然と席を立つことも出来ない。柳原は、財前のまえでは、座っていても、立っていても調和が保てない。自分自身の心の動揺が、「座る」「立つ」を不器用に繰り返させる。だが、やがて彼も「立つ」人になるだろう。最後の土壇場で、青ざめた顔を激しく振りながら、毅然と陪審員席から立ち上がることで。ひとり、ひとり、多彩で多芸な役者陣を紹介するのは割愛するが、死亡した佐々木庸三の妻を演じる中村玉緒が圧倒的に素晴らしい。里見のことを「サドミ」と濁って発音する未亡人中村玉緒が、必死の形相で怒りをぶつけるとき真実の魂が宿ったような磁力が漲り、彼女を大きく、そして神々しく見せる。真実を訴える清らかな心情が見事に表現されているからだ。もう一人忘れてならないのが、奈良の奥深い農村の年老いた百姓を演じる北林谷江の存在だ。大学を追われ大河内の計らいで国立近畿がんセンターに奉職した里見は、水をえた魚のような日々を送っていた。窮屈な大学での「立っている」人から解放され、検診車「移動」する人となった里見は、初診で胃がんを発見した奈良の老婆の生命を救うために、医師の使命をかけて奔走する。頑固で意固地な北林谷江演じる老婆も、里見の一途で誠実な人柄に打たれ入院を決意する。ある日、無事手術が成功し、農作業に復帰した老婆を里見が見舞う。まるで子供のように憎まれ口をきく老婆の姿を見て、里見は医師としての喜びを噛み締める。そして、感動的なシーンが待っている。山間の道を車で下って行く里見は、遥か向こうで手を振っている老婆の姿を認める。キャメラが北林をアップで捉える。そして、北林が感極まって、「おおきに、おおきに...」と小さく呟く場面は、広大な緑の風景とあいまって深い感動を呼び覚ます、例えようもないほど美しいシーンである。前稿の冒頭でも述べたが、このドラマの視覚的主題は、「座る」ことであり「立っている」もしくは、「立ち上がる」ことである。その行為が物語的主題とつながり寄り添っているのだ。東も医師として、人間としてどうあるべきかを里見や娘の佐枝子を通して悟る。財前や財前を囲む人間が「座る」座敷ではなく、洋間に「座る」東が、重い腰を上げ「立ち上がり」、家も疎らでまだ畑の残る郊外の道を、娘の佐枝子と並んで歩く場面は、小津安二郎の名作『東京物語』のなかの、笠智衆と原節子が埠頭に立ち、海を臨むシーンのように慈愛に満ち、温かさで溢れた感動的な光景だ。やはり、最後は里見役の山本学に賛辞を捧げたい。白衣を身に纏い、聴診器を首にかけ、患者の背中を打診し、「お召しになって結構です」と静かに言って、油気のない髪をさりげなく掻きあげる仕草は、やはり、国立浪速大学医学部助教授里見修二そのものである。最終回。手術不可能な末期の癌を患う財前は、死後に望んでようやく自分の過ちに気がつく。遅すぎた悔恨の情であったが、彼の到達した境地が、彼の心を漂白し、里見が自分にとって真の友人であることを知る。人生の末期に及んで財前五郎は、「座る」人からベッドの上で「寝る」人となる。彼が座敷で「座る」人からベッドの上で「寝る」人となるのは唯一けい子といるときだけである。しかし、情婦であるけい子が財前の傍らに寄り添うことは出来ない。だから、その位置には、里見以外におさまるべき人間はいないのだ。なぜなら、財前は、絶命するときに至り、浄化され、里見と寄り添う資格をえたからである。