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顕正会の誤りについて

顕正会の誤りについて

平成5年 霊宝虫払大法会

平成5年4月6日 霊宝虫払大法会(大日蓮平成5年5月号)

『教行証御書』にのたまわく、

 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず、是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし。三世の諸仏は此の戒を持って、法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ。此を於諸教中秘之不伝とは天台大師書き給へり。今末法当世の有智・無智・在家・出家・上下万人此の妙法蓮華経を持って説の如く修行せんに、豈仏果を得ざらんや。さてこそ決定無有疑とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給へり。三仏の定判に漏れたる権宗の人々、決定無間なるべし。是くの如くいみじき戒なれば、爾前迹門の諸戒は今一分の功徳なし。功徳無からんに一日の斉戒も無用なり。但し此の本門の戒を弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なるべし。抑も当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。日本人王三十代欽明天皇の御宇に仏法渡って今に七百余年。前代未聞の大法此の国に流布して、月氏漢土一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ」
                    (新定二―一一六五ページ・全集一二八二ページ)
                              (題 目 三 唱)
 総本山恒例の霊宝虫払大法会に当たり、その行事の一環として今夕は当御影堂において御書講を奉修つかまつりましたところ、法華講連合会・柳沢委員長をはじめ各役員の方々、ならびに全国法華講の方々、さらに海外よりはるばる参詣された世界各国の信徒の方々により、かくも賑々しく仏恩報謝の法要が執行されることは、まことに有り難く存ずるものであります。

 本夕は、ただいま拝読の『教行証御書』の御文に拝される三大秘法中の末法の戒、および戒壇に関する法門について、少々申し述べたいと存じます。

 およそ、仏教が民衆の魂を救う宗教として完全である所以は、その内容が戒と定と慧の三つにおいて、広く深く究竟して説かれているからであります。衆生のあらゆる不幸の源を要結すると、それは心の不安定性と暗黒性と不道徳性にあります。もちろん、多くの衆生のその種類も内容も程度も高低も限りがありませんが、世の中のあらゆる不幸の源はここから起こっております。

 すなわち、心が様々に揺れて種々の悪徳等に影響される不安定性は、定が欠けているからです。また、物事の善悪や種々の価値判断が狂って正道・正義を見極められない不透明の暗黒性は、智慧が欠けているのです。さらに、善悪の価値を無視して、欲望の充足のため平気で悪事を働く不道徳性は、悪を防ぐ心、すなわち戒が欠けているからであります。

 仏の説かれた経・律・論の広い教説中には、衆生の心を正しく導くため、この戒・定・慧の法がそれぞれ別々に、しかも詳しく説かれており、それが八万宝蔵といわれる、広く難しい仏教全体の体系をなしているのであります。

 しかし、釈尊は、四十余年ののち、真実の法華経を説かれ、それ以外のすべての教えが法華経という究竟の法に対する方便であったとして、これを整理せられました。つまり、爾前四十余年の諸経で広く説かれた、戒定慧の三学を方便として捌き、真実の法華経においては、信の一字をもって基本とすることを説かれたのであります。

 宗祖大聖人様は、これについて『四信五品抄』に、

 「戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す」(新定二―一六四八ページ・全集三三九ページ)

と、法華経本門の意によって、仏道の一切を信に束ねる行法を示されたのであります。

 これは、戒定慧の三学を捨てることではなく、方便の爾前権経の戒定を制止して慧を信において掘り下げるところに法華経の真実の戒定慧を行ずるためであります。すなわち、法華経宝塔品に、

  「此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり 是の如きの人は 諸仏の歎めたもう所なり 是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れを戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく」(開結四一九ページ)

と説かれ、また、寿量品に、

  「色香美味。皆悉具足(色香美味、皆悉く具足す)」(同五〇三ページ)

と説かれる文に、法華経を持つことが定慧戒の三学具足であり、特に戒を持つに当たることを仏説によって示されてあります。

 さて、本日の御書の本文について拝しますと、この所は、律宗の忍性等の主張する小乗の戒律を、彼等が実は口先のみで実際には破っていることとともに、小乗の戒律は末法に無用であるとして破折をされました。続いて、宗祖大聖人の本懐たる本門三大秘法の本義より、真実の末法の大戒を述べ給う文であります。

 これを、まず、この御文に明らかに、「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経」と仰せられております。すなわち、「本門」の二字は迹門を簡び、「肝心」の二字は、『開目抄』の「文底」の二字と同じく、文上の本門を簡び捨て、久遠元初本因妙の本門を顕されるのであります。

 この仏法の源である妙法五字は、実は法という真理・法則のみでなく、これを悟られた人格存在がましますのであり、これこそ結要の付嘱を受けて末法に出現した宗祖大聖人様が深く心中に秘せられ、本門弘通の大導師・日興上人に相承せられた大事なのであります。

 それを、この『教行証御書』にあっては、やや汎い意味をもって、

  「我等が如き凡夫、無始已来生死の苦底に沈淪して仏道の彼岸を夢にも知らざりし衆生界を無作本覚の三身と成し、実に一念三千の極理を説く」
                     (新定二―一一六二ページ・全集一二八〇ページ)

と、凡夫即極の法門を示されております。

 しかし、これも極まるところ、凡夫即極の下種本門常住の仏・日蓮大聖人御自身を示し給うことは、弘安五年の『三大秘法抄』や『御義口伝』、本尊相伝書等に明らかであります。

 故に、この妙法五字とは久遠の人法一体の本尊であり、ここより三世十方の諸仏が出生することを、『筒御器抄(秋元御書)』には、

  「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」
                     (新定三―二〇七七ページ・全集一〇七二ページ)

と示されております。したがって、当『教行証御書』の次の文に、諸仏の功徳の積聚に約して、「妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり」と仰せであります。

 これを要するに、「本門の肝心妙法蓮華経」とは、三大秘法を惣在する人即法の本尊であります。

 次の御文の「此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」からは、まさしく本門三大秘法の意義をもって、末法の本仏・大聖人の本門下種の大戒を示し給うのであります。

 この文で大聖人様は、上行所伝の要法としての妙法五字、すなわち、本門の本尊を持つところ、ありとあらゆる戒の功徳が納められていると仰せであります。

 戒とは、申すまでもなく「防非止悪」の義であります。悪には、基本的なものとして、殺生・偸盗・妄語・邪婬の四大罪があり、また、十悪の業としては、さらにこれに、悪口・両舌・綺語と貪・瞋・癡の六を加え、さらに、その程度によって、上品、中品、下品等に分けるのであります。

 次に、小乗戒では、比丘には二百五十戒、比丘尼には五百戒という多くの戒律が設けられ、大乗戒は、代表的なものとして梵網経の四十八軽戒と十重禁戒があり、特に十重禁戒は大衆乗の基本的戒相となっております。いわゆる、不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不酒戒・不説四衆過罪戒・不自讃毀他戒・不慳貪戒・不瞋恚戒・不謗三宝戒の十であり、宗祖大聖人は『本門戒体抄』に、この相に則られて本門の戒法・戒体をお示しになり、さらに、この意義を要約した本門三大秘法が、相伝による本宗の授戒の戒相となっていおります。

 さて、この「五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」との御文は、小乗・大乗の広汎な戒の「防非止悪」と「衆善奉行」の功徳をことごとく妙法五字の本尊に納めているのであるから、妙法五字を受持するところに、あらゆる悪行の罪障消滅と、あらゆる善行の基本が具わるといわれます。

 つまり、末法の機根は、下劣にして極々の大衆をもって救済すべき時において、小乗・権大乗の繁瑣な、たくさんの戒を行ずることは、あたかも冬に稲を植える如く、時機に反逆するものであり、妙法受持にこそ、道徳・戒律の根本があるとの御指南であります。

 ただし、ここで考え違いしてはならないことは、妙法受持が根本の大戒であるから、これを持ちさえすれば、あらゆる悪心・悪口・悪業を常に行ってもよいと考えるのは、大きな誤りであります。

 今日の創価学会が、形のみながら、日蓮正宗の御本尊を持ち、題目を唱えているから、どんな嘘も中傷も、背徳も反逆も許されると狂信し、執着しているのは、明らかにこの誤りを犯しております。この御文には、「万戒の功徳を納め」とあり、万戒に背いてよいとはありません。

 すなわち、末法は無戒であっても、それが、破戒でよいということではないのです。末法無戒とは、もちろん、末法は貪瞋癡充満の五濁悪世の時代ですから、各々に謗法で罪障、不道徳の行為はおのずから多いのですが、それを、法華経という根本の仏力・法力に対する信心、一切の衆生に仏性を見、また、顕す心を基本として、その法華経を持ち弘めるところに、あらゆる大小諸々の道徳もおのずから付随し、罪障消滅が自然に行われる意であります。

 したがって、創価学会は、これを誤って、正しい御本尊さえ持つなら、目的のために手段を選ばず、墟を言うことも不道徳行為も平気で行うことが許されるという悪見に堕ちておるのが、第一の誤りであります。また、その元には、大慢心の池田大作等による、「我れ尊し」とする我見・悪見が、おのずから下種三宝に対し奉る軽蔑を生じ、本門戒の本義たる謗法厳誡の精神に背反している誤りあることを指摘するものであります。

 さて、次の御文に、「但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず、是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし」との文は、戒体の上からの御指南であります。

 およそ、戒には、戒法・戒体・戒行・戒相の四つの区分けがあります。戒法とは、仏の悟った真理に基づいて制定された「捨悪持善」に関する法であります。戒体とは、戒師によって授けられた戒法を、我等が「持ち奉る」と誓って心中に受け入れた時、その法の功徳が我々の身体のなかに生じ、目に見えないけれども、常に保たれて生命の中心的活力となる、無表の体をいうのであります。また、戒行は、戒体を得てこれを実際に行うことであり、戒相とは、大東・小乗、在家・出家等、様々の教えや機の違いによる、五戒、十戒、八斎戒、四十八軽戒ないし二百五十戒、五百戒等、それぞれ異なった相状をいうのであります。

 さて、戒体のなかで、小乗の戒体は尽形寿といい、戒を受けて鵡表色を得ますが、その戒体の続くのは、今世の身体と寿命のあるうちのみであって、その一生が尽きれば戒体も失われます。あたかも、土で作った器が壊れて形を失ったのちは、使いものにならない如くであります。凡夫は、五戒を受け戒体を得ますが、これを破れば戒体を失って地獄・餓鬼・畜生等に入り、二乗は身を灰となし、智を滅して空に入るので、一生でこの戒体を失います。小乗の仏・菩薩もまた、凡夫・二乗と同じく空に入るため、所詮は尽形寿の戒に摂せられます。

 次に、権大乗経の戒体は、梵網経に代表されますが、これは、円という真実の教理のほかに別教という方便があるので、三世にわたって戒体は存続しますが、菩薩が長く生まれ変わり死に変わって、わずかずつ位が進み、ようやく仏の位に近づく権りの大乗の戒体であり、即身成仏の戒体となりません。これを金銀の戒に譬えます。つまり、金銀をもって器を作れば尊く、また、破れて器の用をしなくなっても、なお金銀の貴さは残る如く、菩薩は、死んでその身を失ったのちも、その大乗の戒体が失われることがないけれども、即身に仏因仏果を成じないために、歴劫の修行、長くして、時に破れることあるに譬えます。

 次に、法華経の実大乗経の戒体は、実に仏因仏果の戒体であります。これは、法華経に、

  「衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲する」(開結一六七ページ)

と説かれ、地獄・餓鬼・畜生ないし菩薩までの一切の九界の衆生の身を押さえて、そのまま仏の因と開くからであります。

 すなわち、一切衆生の身は、皆、仏と等しい清浄な戒体の性質を具えていると説かれるのであります。これは、本来、十界の衆生の全体に、破戒・持戒を問わず五つの徳、すなわち、不殺生・不偸盗・不妄語・不邪婬・不飲酒の五戒が具わり、これを、法華経において成仏の元となる正因・了因の仏性を助ける縁因の仏性と示すとき、五戒即仏因であり、また、九界の迷いの衆生の当体が即、仏因と開かれるのであります。

 現証としては、法華経にのみ、二乗の成仏、畜生・女人の成仏、提婆達多の悪人成仏が説かれてあり、一界のみの特別な機根の成仏でなく、十界互具の成仏が明らかであります。

 故に、法華経を信じ持つ者は、いかなる衆生もこの十界具足の戒体を発得し、必ず即身成仏することを知るべきであります。そこに、一には、その迷いの当体を改めず、二には、その徳が常に変わることがないため、仏因仏果の戒体たる法華経の戒体を「金剛宝器戒」と言う所以があります。

 金剛を磨いて宝とすれば、水火にも何物にも失われることがないように、法華経の戒体を受けるときは、未来にいかなることがあっても、失われることがないのであります。

 釈尊在世の衆生は、久遠からの仏の下種による法華の戒体があり、それを忘れて背いたため悪道に堕ちましたが、戒体は失われません。そこで、仏はまず方便の爾前経を四十余年間、説いて機根を調え、最後に法華経、涅槃経を説いて真実の戒定慧を開き、過去の戒体を引き出して成仏せしめたのであります。

 この場合は、法華経の迹門と本門が一括して説かれたので自然に迷いを転ずることができました。しかし、滅後においては、機根が異なるため、これを分けて、あるいは小乗、あるいは権りの大乗、あるいは法華経迹門等を中心として、四依の人師により正像二千年の衆生を成仏せしめたのであります。

 しかし、末法にわたして法華経を拝するとき、迹門の戒体は理のみであって、仏因仏果における仏の常住の実体がありません。また、文上の本門は在世のためであり、その釈尊は色相の方便を備えるため、常住の仏であっても、過去に妙法の種のない、末法の迷いの一切衆生の仏因仏果の戒体を開くところの、下種の仏ではありません。

 すなわち、久遠の「我本行菩薩道」の文の底に秘められた、久遠元初本因妙の仏と寿量品の肝心の妙法蓮華経、人法一箇のところに具わる戒定慧のなかの戒法・戒体こそ、真実の金剛宝器戒であるとの意を、ここにお示しなのであります。故に、この戒体が失われることはありません。

 しかし、今日の創価学会の如く、下種三宝に背く誹謗をなすときは、根本の戒法・戒行に逆らうことになり、その罪は実に多大であり、死して必ず地獄に堕ちます。そして、百千万劫ののち、其の罪を畢え已った時、このたび受けた戒体は失われていないので、その徳がようやく蘇って成仏できるのであります。

 次の「三世の諸仏は此の戒を持って、法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」の御文には、一に、寿量品の肝心の妙法を持つことが仏道の一切の根本であり、まことの防非止悪の戒徳を成ずる故に、三世諸仏はすべてこれによって仏と成れたこと、二には、成仏とは実践によって得る故に、戒定慧のうちで、特に戒の徳が成仏について重要であることの意が明らかであります。

 故に、謗法を厳しく誡め、正法受持の戒を実践するところに下種本門の真実の戒があり、大聖人の弘通の本意がここに存するのであります。

 さて、次の『文句』の引文と勧誡者の御文については説明を省略いたし、具体的な本門戒、および戒壇の弘通をお示しの文より申し述べます。

 その初めの、「但し此の本門の戒の弘まらせ給はんには、必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なるべし」とは、かかる大法の出現、本仏の出現に対し、天地の自然現象において大いなる瑞相の起こったことを示されました。

 実に、本仏大聖人様の出現の時、各経に説かれる三災七難がまのあたり惹起し、特に日本国にいまだかつてなかった他国より大規模の侵略が、大聖人の大予言の的中として起こったのであります。

 これも、本仏・本法出現の大因縁による法界の実相であり、翻って、正嘉元年(一二五七年)八月二十三日の大地震と文永元年(一二六四年)七月の大長星は、現代に至るまでその例を見ない、本仏の大戒出現の瑞相であります。

 さて、次はいよいよ本日拝読の最後の御文であります。

 「抑も当世の人々何れの宗々にか本門の本尊・戒壇等を弘通せる。仏滅後二千二百二十余年に一人も候はず。日本人王三十代欽明天皇の御宇に仏法渡って今に七百余年。前代未聞の大法此の国に流布して、月氏漢土一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ」の御文は、まず大聖人様が、一往は弟子の三位房に対し、再往は一切衆生に対し、前代未聞の法華経の行者たる大慈悲、大確信の上から、本門の本尊、戒壇等の三大秘法を弘通する者こそ、仏滅後、三国に数千万の法師あるなかで、ただ日蓮一人であることを宣言あそばされた文であります。

 釈尊が法華経を説かれたのは、久遠の本仏の垂迹としての立場からであり、故に開三顕一・開迹顕本を示されたのであります。宗祖大聖人が法華経を行じ給うたのは、本仏そのもののお立場からであり、故に久遠元初の法体そのものを直ちに顕されました。故にこそ、その当体たる本尊を弘通されたのであります。

 また、この一大秘法の本尊は、そのまま身延入山以来、『法華取要抄』以下にその弘通を宣言あそばされた、本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法であります。

 この意味は、一大秘法を開けば三大秘法に、三大秘法を合すれば一大秘法の本尊となるのであり、これは諸御書の文意とこれを総合する相伝の深意において明らかであります。

特に、

  「戒定慧の三学は、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
                      (新定三―二八一二ページ・全集七六〇ページ)

の『御義口伝』の文は、宗祖大聖人の御当体即本門の本尊であり、その本尊の所行は本門の題目、所住は本門の戒壇であって、そのまま久遠元初の法体、面授口決の大法であります。その魂を墨に染め流された妙法本尊においても、一大秘法即三大秘法の義が存することは当然であります。

 この内証の御究竟は、宗祖大聖人身延入山以来、次第に妙法大曼荼羅御本尊の当相にお示しあそばされ、弘安元年以降は釈尊仏法の「法勝人劣」に対する、久遠元初人法一箇の意を拝しますが、さらに、宗祖の本仏たる究竟の大慈悲は、すなわち、法界一切を成仏せしむるにあり、弘安二年三月、日目上人授与の本尊以降に悪逆・提婆達多の顕示加入をもって、事の十界互具の戒体即身成仏を示し給うところに、順逆の一切を妙法の大善に包容し、同化し成仏せしめる、本門大戒の究竟が拝せられます。

 ここに、三大秘法が戒法・戒体の意義によって最後的に整足せられ、まことの一切衆生即身成仏の大法を確立あそばされたことが拝されるのであります。

 かくて、そののち、熱原法難の惹起によって本懐顕発の外縁具わり、内外の大因縁充足して弘安二年十月十二日に、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を顕示し給うたのであります。

 思うに、この文永十二年三月の『教行証御書』で、ただいままで拝読の如く本門の大戒について述べられ、かつ、戒壇の弘通を仰せられたのは、一期御化導の上に重要な意義があります。

 これは、大聖人様が宗旨建立よりの御一生を通じ、本門戒の本義を元として、さらに、未来に向かっての三大秘法の整足、末法万年の衆生救済のため、本門戒壇の法体を確立するぞとの宣言にほかなりません。そこに、この文の深意を拝すべきであります。このところから、仏法が未来に向かって展開される大目標を、弘安五年四月の『三大秘法抄』に初めて、本門事の戒壇の文義をもってお示しになりました。

 けだし、大聖人の御一期の御化導におけるや、本門の題目は、宗旨建立より弘通せられ、その実体たる本門の本尊は、竜の口の発迹顕本以後より弘安元年、弘安二年に至って顕示・究竟せられ、本門戒壇は、弘安二年の本門戒壇の本尊を根本法体とされて、その一切衆生救済の大目標を、事の戒壇の指南をもって弘安五年の『三大秘法抄』に示されるとともに、その一切の本義を日興上人へ付嘱あそばされたのであります。

 故に、本門戒壇に義と事を分かつとき、法体に約すれば本門戒壇の本尊まします処、直ちに事の戒壇であります。しかるに、他の大聖人御顕示の御本尊や血脈付法代々の書写の本尊は、その所住の処、義が事の戒壇に当たる故に義の戒壇であります。

 また、事の戒壇を大聖人の大慈悲の実際的、具体的顕現たる広布の事相に約すれば、御一期において『三大秘法抄』のほかには全く秘して説かれなかったところの、「王仏冥合」の御文であります。ここに、王仏冥合の条件の上に本門戒壇の建立を示されたのが、まさしく御仏意てあり、他の者が容易に容喙してはならぬ一大事であります。

 本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件的に具備した時、戒壇を建立するところに、本仏の志し給う「事の戒法」が成就するのであります。すなわち、この一切は御仏意であり、これはさらに、のちの『一期弘法抄』に本門戒壇の建立につき、二祖日興上人に遺命されるところであります。

 したがって、この戒壇建立は、大聖人の御仏意による終窮究竟の厳然たる御指南であり、いやしくも凡夫や一信徒が知ったかぶりをして、軽々に口を入れ、論ずべき法門ではありません。もし、そういうことがあれば、これは本仏のお心を踏みにじる、大謗法であります。

 しかるに、池田大作なる顛誑の大謗法者は、

  「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」

として、精神と形式を分け、御本仏の精神、いわゆる御仏意を蔑ろにし、民衆の幸福という空漠たる迷いの機根中心の観念を正として、これに大聖人のお心による戒壇建立を従属化したのであります。これまさに、仏法破壊の天魔の所行であり、大悪言であります。

 このような誤りによって正本堂を意義づけようとしたところに、池田の指導する創価学会の基本的な狂いがありました。それが、今日の「広布第二章」という大作の指導に見られる、本末顛倒の、内外一致とも言える誑かしの姿となっております。故に、世間的な名誉のみに囚われて、各国の勲章をあさったり、また、その名声や賞を常にねらうなど、この大作の所行については、かの「勧持品二十行の偈」の法敵三類中、僣聖増上慢についての予言、「利養に貧著す」云々、また云く、「是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念う」と説かれる言こそ、まさにピタリと的を射ております。

 また、この根本の戒に背いている以上、池田やその指導を受ける者達が、それ以下の善悪に無知となり、したがって道徳的不感症となるのは当然であり、あらゆる悪徳・悪義を平然と実行するに至るのであります。

 先師日達上人も、創価学会の当時の大勢力による我見にはたいへん御苦労あそばされ、時には大慈悲の包容的化導の上から彼等の思想言辞に従容の態度を取られるところもありましたが、昭和四十五年の虫払大法会の砌は、大聖人の御金言の如く未来において『三大秘法抄』の戒壇が建立されることを信じ奉る旨を厳として示され、また、創価学会第三十七回の総会において、『三大秘法抄』の戒壇の文を今日の立場から達意的に拝され、日本人口の三分の一の純真・確実な信徒の実現をもって、その条件とすべき見解を指南されました。

 この御指南のとおり、本仏の御仏意は、凡夫や信者の野望によって簡単に解釈し、処理すべきものでなく、その時々において、あくまでも『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇の御指南を原点として常にそこに帰り、拝仰しつつ本門大戒壇の建立に向かって進むことが肝要であり、その弘法精進において必ずや、僧俗一同に即身成仏の大功徳が顕現していくのであります。

いわゆる、戒とは実践であります。戒壇とは、本門戒壇の本尊のまします処を踏み、参詣して、その功徳を根本として日常の所作万般を功徳化し、常に仏の加護を得、罪障消滅・即身成仏の仏果を成就し、かつ、広布の大願に進むところを本義といたします。ここに本門大戒の実践があるのであります。

 今日、史払大法要に当たり、日本ないし世界各国より、地涌の眷属としてこの世界に真の功徳をもたらす正善の人々、本仏大聖人様が善男子・善女人と御嘉賞あそばされるであろう方々が、多く参詣をいたされました。どうか、この大法を受持するところに、自身の福徳増進とともに、真の仏道の功徳の成就、社会・人心を救う根本大道のあることを確信せられ、今後の一層の御精進をお祈りいたしまして、本日の法話といたします。




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