テーマ:障害児と生きる日常(4431)
カテゴリ:障害児と生きる日常
子供に対する人称は、何が妥当なのだろうか。
うちの子。 うちの娘。 うちの息子。 子供。 あの子。 今まで、そんなこと、考えたこともなかった。 娘が保育園に入ってから、こちら。 劇的に変わったことは幾つもあるが、その一つに近所付き合い、というものがある。 通院→療育→入院→手術→通院→療育→ というサイクルをぐるぐるぐるぐる回っていると、 どうも、一般的な家庭のサイクルとは違うサイクルを生きてしまうものらしい。 近所の人に会う、といえば、ゴミ出しの時くらいで、 挨拶程度の付き合いしかなかった。 思い返せば、多くの人が公園に遊びに行く午前中に、主に療育や通院が入っていたためか、 公園でも出会わなかった。 おまけに、夫は暦通りの休みではない、と、きている。 当たり前といえば当たり前か。 娘が保育園に行くようになって、こんなにも近所に同じような年頃の子供がいたのか、と、驚いた。 向こうも、私の方が彼女たちより長く、このマンションに住んでいると知って驚いてた。 送り迎えのとき、何度も立ち話をしているうちに、彼女たちの一人に呼ばれて、5家族くらいのグループと行動を共にするようになった。 お茶をしたり、食事をしたり、 先日の日曜日などは4家族で潮干狩りに行ってきた。 半分が外国人だからか自由な気風で拘束感はないし、 何より、障碍のない子供たちと遊び刺激を受ける良い機会であるし、 ストレスのない程度に、お誘いを受けていた。 その家族のうちの50代のお父さんに、飲みの席で言われた。 「子供を『あの人』って言っちゃ駄目だよ。」 彼は、娘の障碍について、ヘンな言い方だが、積極的で、 こうやって皆で遊べば良い刺激になるから、一緒に遊ぼう。 30分語りかけという方法を知っているか。 抱かれる子供は良い子に育つって方法を知っているか。 と、ハードカバーの本を5冊も持ってきて語り入り、 あげくに、上のように、のたまわったのだ。 障碍児を産み、育てる、ということは、彼が思うほど簡単で単純で夢のある話ではなく、 育てている者の体力だけでなく、気力さえ奪いさるもので、 当事者たる親が、そこまで子供に入れあげるまでに長い時間が必要な人も多いだろう、 という持論は、彼には言わなかった。 そんなことを、第三者の彼とまで議論する元気が私にはなかったし、 議論しなければいけない、義理の両親や、娘の療育担当者たちにさえ、 納得させられない私には、とても無理だと思ったからだ。 だから、この議論は置いておくとする。 私が気になったのは、『あの人』という表現だ。 今まで、自分が実生活でも娘を『彼女』や『あの人』と指していることに、 指摘されるまで気付かなかった。 いや、気付いたとしても、そんなに問題視される表現だ、と、思いもしなかっただろう。 彼が、このような発言をすると、我も我も、と、皆が、そんな風に呼ぶのは良くない、という。 これだけの人が良くない、と、感じるからには、 その表現に、私の娘への愛の薄さ、他人行儀さを感じる、ということなのだろう。 そうなのだろうか。 私の娘への愛の足りなさが、彼女を『あの人』と呼ばせるのだろうか。 もし、愛溢れていれば、違う人称を使うのだろうか。 娘に障碍がなく、順調に育っていたならば、人称は代わったのだろうか。 障碍を持って授かった娘以外の子供がいない私には分からない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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