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中学生の頃読んだ小説というのは、思春期から壮年期の時を経て、人生に多大な影響を与えるもののように思う(おおげさ)。 と、言っても先日書いた「復活の日」はうろ覚えにしか記憶になかったが笑。 そんなわけで中学生の頃、横溝正史著作「悪魔の手毬唄」を読んだ。 「復活の日」と同じように小遣いで買ったのだろう。 思えば昭和50年代の、当時の新興住宅街に「古本屋」というものがなかったように思う。 だから「本を読む≠中古本」だった。 そもそも新書を買うしか選択がなかったのだから、中学生の私は何件かあった本屋を、夏休みの日がな一日巡り歩いていた。 その本屋も今では一軒も姿を残していない。 残ったのは、夏休みの蒸し暑い、クーラーなんて概念のない夜、人生初の徹夜をして一晩で読み切った思い出だ。 徹夜なんて、その後何度も(色んな事項において)経験するのだが、何事も「初体験」は「子供」から「大人」への大事な通過儀式だ(おおげさその2)。 はっ、と気づいたら外が明るかった、のはなんかやばいことをした罪悪感もあったように思う。 で、内容の話なのだが、ご存知我らが「探偵:金田一耕助」が、戦後の岡山の二軒の対立する旧家を巡って起きる「手毬唄」になぞらえた連続殺人、そして20数年前の殺人も絡んできて、とてつもなく複雑に入り組んだ人物相関のややこしい事件を解決していく話だ。 この小説を読むに際して、何パーセントの人が「オリジナル人物相関図」を書いたことだろう笑。 この小説を読んだ後も、色んな推理小説、ミステリーを読んだけど、やはり印象に残っているのは、終盤犯人もわかって、もう誰も殺されることはない、だけどこれで安心なんて少しも感じられない大勢の事件関係者の皆さんを金田一耕助は集めて、 「どうでしょう、皆さんでこの事件を討論してみませんか?」 と語りかけるのだ。 「犯人はお前だ!」 なんて、のちに現れる「マゴ」のようなことは「じっちゃん」はしないので笑、事件関係者を集めた席の金田一耕助の眼の光は、消えそうなろうそくのような弱いものだったのではないだろうか。 関係者たちが、 「今思えば、ああだったのかも」 「こういうことではなかったのか」 と、議論が白熱すればするほど、自分たちの中で気持の収まりどころが解決すればするほど、唯一部外者の金田一耕助の眼の光は沈んでゆく。 金田一耕助って、ええなぁ と、思い続けて、40年後岡山の「横溝正史疎開宅」に行って「金田一耕助の小径」を歩くことになるのだ笑。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月21日 12時13分05秒
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