脛でありたいという生き甲斐
進路が決定していない 受験生の親というものは、これほどにもどかしいものなのかということを、改めて知りました。もちろん、渦中にいる 子供が一番苦しんで、迷い戸惑っている事を目の当たりにしているからであって、子供の感情を端において、親の見栄で言ってることではないのですが。何を求めているかというと、すっきりした子供の笑顔。これに尽きるのかと思いました。金曜日は、ようやく「専門学校」という方向へ向いつつも、いや もっと他にやりたいことがありつつ、口にしないのか、いや それ以上に(娘が)途方に暮れているという表現があっているような表情を見ているのが 辛い。そこへむけて、「専門学校なんて・・・」という夫の発言に、意気消沈の娘。夫の言葉も、おそらく調理師や美容師、看護師というような専門学校に行かねば得られない学校であるなり、尚且つ本人が「ここ!」という選択であれば、余計な事も言わないであろうとはわかっているものの。(余計な事を・・・) と 夫のいらん一言にむかついた。むかついたけれど、夫の言葉で 娘が本当にやりたい夢を 私だけに教えてくれた。 ・・・・・・・むり! とは言わなかったけど。しゃぼんだまに似たような夢である。その方向も、どの方向も いまはまだ 決定できない くらい 若い ということを改めて 親として考えさせられた。それゆえに、大学へ行ったほうがよいかもしれないという指針を示した。 「なにをやりたいかわからないなら、大学へ行きなさい」そんなことを言う人がいる。家に余裕があれば、そんな暢気な事が言えるんだと かつては思っていた。けれど、今はちょっと違う。確かにそうだと思う。長女のように、看護師になると言う確固たる夢があるなら、それに突き進めるが、そうでないなら、選択する為に世間をしる手段としての進学も必要なのだと感じた。そして、もう一つ考えを改めさせられたことがある。いつまでも「子供のすね」でありたいと 思い始めた親心なのだ。子供が幼い頃は、子供なんていない方が自分の自由になるお金があるし、時間もある。早く子育て終わりたいと 切に願っていた。末子が高校を卒業というここにきて、働くための生き甲斐がいなくなることへの焦燥感を感じ始めているのだ。それなら、大学に入ってくれたら ここでまた 「子供の為に」と 頑張れそうでね。この親の感情が、世間の「ニート」を生み出しているんだろうか?100%でなくとも、20%は是に該当するだろう。