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私達の心の中に住まいする「我」は四つあって、それを「四我」と言うんですが。我が心の中に何個あろうとも、どうでもいい話なんですが、正直書くネタが無く成って来たので、どうでも良い小難しい話しをします。と、言うのも人生を楽に暮らすのに、余り難しい知識は必要ないとラッキーは考えるからなんです。世の中を見渡して、知識に偏っている人で幸せな顏をしている人に出会ったことがありません。お目出度い人には、よくお目に掛かりますが。そしてこの様な話しは禅の言葉が多く、その説法も難しく言うばかりで私達にはとっつきにくいし、難しい話しが殆んどです。 この日記に時々登場する坊さん、あの人は東京大学の出身なんだそうですが、諸国巡礼を重ね、時にはお寺さんに一夜の宿を借り、有難い説法も聴くことがあるそうなんですが、話しの本質がつかみにくい話ばかりだとおっしゃいます。と、言うより話しを真面目に聴いているのかどうかも怪しい処があるんですが、気に止まったことで、解釈が難解な話しはラッキーに意見を求めて来ますからまんざら右から左と言うことでも無いんでしょうが。坊さんの素晴らしい処はこれから話をする「四我」を殆んど持ち合わせて居ない人で、これは、大したもので、大した者だから、ラッキーと酒盛りをする御縁が生れたのかも知れないんですが。安気な人で、常人では無いことは言うまでも有りません。 四我の一番目は、「我痴」で、我痴とは、物事を知らない人、物事を追求しようとしない人と言う意味です。知識の知と言う字には物事を認識したり判断したりすると言う意味があり、その知が病んだ時に「痴」に成るんです。自分とは何か?人生とは何か?自分は何のために生まれて来たのか、そんな事は考えもしないし、聴いても解らない、興味も持たないことを「我痴」と言います。 次に、「我見」とは我の強い人のことで、自分の考えや意見を押し通す癖のある人、物事を自分本位に考える人のことで、自分の人生観が全ての様に言う人居るでしょう。全て自分の考えが正しいと思っているから、何でもかんでも押し付けて来るこんな人多いでしょう。 そして次が「我慢」この我慢は、一般的に言われている、辛抱我慢の我慢では無くて、「自慢する事」で、慢心の心のことです。おごり高ぶりの心の事で自分は誰よりも優れていると思っている人も多いし、そう成ろうと努力している人も多い、そして自分を卑下する人も「卑下慢」と言って、事あるごとに私なんか、私はとても詰らない人です、などと卑下する人も結構いるでしょう。これも慢心の心なんです。 そして最後は、「我愛」です。我愛とは自分が一番可愛いと言う意味です。自分を大事にすると言うのとは、少し違っていて、例えば、他人が溝に落ちてけがをしても何でもないが、自分が落ちて怪我をしたならば大騒ぎをする人、こんな人のことです。この四つの我を持ち合わせている人を「我の強い人」言い、これらの我を持ち合わせて居ない人の事を「無我」と言います。竹脇無我と言う俳優さんが居ましたね、痴呆が噂されて居ましたが、無我の境地に至ったのかも知れません。 あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v 【ラッキーの一言】どんなに知識があろうが、どんなに偉く成ろうが、どんなにお金持ちに成ろうが、一寸先は闇です。それがこの世と言うものなんだと思いませんか。 ラッキーでした(^O^)/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.06.14 00:17:41
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