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以前の日記に書きましたが、「長者の万灯より貧者の一灯」と言う言葉があり、貧しき者が布施する遠とい真心は、仏の心でありこの世を照らし続ける灯りに例えられる言葉なんですが、この言葉のモデルに成った話しを今日は講釈します。と、言うのも世の中を照らす灯りは原子力では無い、人の心だと言うことを忘れて、相変わらず銭金勘定に明け暮れしている政治家や商売人の話ばかりが蔓延している今日この頃で、少し、心の栄養に成る様な話しは無いものかと考えて居たらネパールのルンビニ苑に「貧者の一灯」が燃え続けていたと言う話しを聞いて昔読んだ話しを思い出し、お導きの様な気がして講釈しようと思ったんです。
今は昔、インドの祇園精舎で、お釈迦様の説法がある度に国王や大臣達が燈明その他を供養していました。そんなある日、貧しい家に生まれ何時も食べ物を乞い歩いてその日の生活を繋ぐ暮らしをしていた難陀(なんだ)と言う女性が祇園精舎を訪れ、私は何の罪があってこのような貧しい家に生まれたんだろう。なんとかみんなと同じように、燈明を捧げてお釈迦様のお話を聞きたいと思って、一日中乞い歩いて、ようやく一銭のお金を得ることが出来ました。その一銭を握り締めて油屋に行き、油を一銭分くださいと差しだすと、油屋が難陀に聞きます。一銭分のわずかな油をいったいどうしようと言うのですか!と。 難陀は答えます。私は貧しくて、他の方の様にいろんなものを供養することが出来ません。せめて、小さい御明かしだけでもと思いまして・・・難陀の心に感動した油屋は油を二倍持たせます。難陀は大喜びして祇園精舎へ行き、お釈迦様に御明かしを捧げながら、自分の心にこう誓います。「こんな小さなともしびにも、もし、功徳がありますのなら、来世には明るい知恵を持って生れ、世の中の多くの人々の苦しみを取り除くことが出来ますようにと・・・」 お釈迦様に礼拝してその場を下がり、説法が終って夜中を過ぎたころ、他の燈明は全て消えてしまったのに、この一灯だけが消えません。弟子が三度も消そうとしますが、ついにこの一灯だけは消えませんでした。 その時、お釈迦様はその弟子にこう言います。「かの女人の美しい心は御仏の心とまったく等しい。ゆえに大海の水をもってしても、永久に消えることはないのだ」と。・・・真心の灯りは永遠に灯り続けると言う教えなんですが。ここで言う真心とは、どんな真心を指して居るのか!わずかな燈明でも差し上げたいと思う真心なのか!それとも、今度生れて来た時には、人の苦しみを取り除いてあげたいと思う真心なのか!そうです、人々の苦悩を取り除いてあげたいと願う心を仏教では「大菩提心」と言って仏様の心と言う意味です。 自分の幸せより他人の幸せを先に願う心と言うのは、古代の日本人の心だと以前の日記に書きましたが覚えて居ますか!神の国、日本にお釈迦様も学んだんことも書きましたが、貧者の一灯これこそが、これから私達が目指さなければならないテーマだとラッキーは思ってやみません。消費税がどうとかこうとか節電がどうとかこうとか言っているようでは、お先真っ暗ではありませんか。 あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v 【ラッキーの一言】貧者も集まれば、万灯に成る。でっちもその内、番頭に成る。 ラッキーでした(^O^)/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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