行雲流水の如し
毎日毎日、ニュースを見聞きするたびに胸糞が悪く成る話しが蔓延している今日この頃で、経済優先の時代の毒が噴出しているとお嘆きの方も多いと思います。そして怒りが自分の健康を左右していることに気が付いている人は少ない。 あなたほど物事が見えて居る人が、腹が立たないのかとラッキーに噛みつく御仁も居られます。物事が見えて居るから、腹の立つことからは逃避する努力をしていると言って貰いたいものなんですが、腹を立てるのが趣味の様な人に理解を求めるのは野暮だと知るから知らないふりをする。腹を立てるのは簡単で、腹を立て血液を酸化さて暮らすのも人生ならば、傍観しながら空の雲の様に流れて行くのも人生。同じ時間を過ごすのであれば、行雲流水の如しに暮らしたいものだと願うラッキーなんですが、世の中の流れの渦に飲み込まれて暮らしたくないと言うのがラッキーの本音ではあっても、中々世の中の渦から逃れて暮らすのは難しい。今日のタイトルの「行雲流水」と言う言葉の意味を少し講釈するならば、行く雲と流れる水の様に執着することなく自由に流れる境地を意味していて、空の雲は拘りを持たず生れては消え、そして風の吹くままに流れ、地を流れる水は一か所に止まることなく臨機応変に形を変えて流れて行く。行雲流水とは、そうした何事にもとらわれることのない生き方を示した言葉です。空を行く雲を眺めて自分もあんな風に自由に生きて見たいなぁーと思ったことのある人も居ると思います。しかしながら、自由に生きて行きたいと思うのは簡単ですが、実際に全ての執着を捨てて行雲流水の如しに生きると成ると、簡単ではなく、今の時代では、ほぼ不可能と言っても過言ではありません。生活保護を一生保証してくれれば可能かも知れませんが。暮らしていく最低減の保障が無いと全ての執着を捨てると言うのは我々凡人には出来る芸当では無い。全てと言うのは生きることへの執着も入っていますから、生活の保障を意識すること自体すでに執着の塊と言うことなんです。そこまで厳密に言わなくても、周りからの圧力はすさまじいものです。現在、教育にたす触る者達のあり様は、何を教え育てて居るんでしょう。国家権力を手にしている者達のあり様は、如何なものなんでしょう。こんな畜生にも劣る者達が蔓延している世の中で、身軽に生きて行くのはそれこそ雲をつかむ様な話しだと思いませんか。修行する僧を「雲水」と言いますが、雲水は、師を求めて各地を行脚しながら修行を続けます。師とするのは何も偉い坊さんばかりでは無く、日常の中で出会う人達や自然界もまた師として受け入れ、出会いを全て師として受け止めて学習するのが雲水の姿勢なんですが、その雲水にも昨今は異変が起きて居る様に思います。大自然も在り様を変え、怒りをあらわにしている様に思うのはラッキーだけでしょうか!富士山も様子が変わって来ている様です。もう直ぐ梅雨もあがり蝉が鳴きはじめるでしょう。そして暑さにラッキーも泣きはじめるかも知れません。行雲流水の暮らしに近づくコツは、情報のカットです。如何に雑音を入れないかがポイントで、毒を貰わないことが「幸運流水」に辿り着くるコツで、行く雲に成らなくても良い、流れて来る幸運に授かれば良いと言うのがラッキー流の行雲流水なんでした。あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v【ラッキーの一言】世の中が乱れると自然界に逃避したくなるのがまともな人間の様な気がします。ラッキーでした(^O^)/