永嶋半五郎家聞き書き

イデミーさん 初めまして。貴兄のHPを興味深く拝見しました。赤間の宮田に親戚があり、父が野坂、母が津屋崎の出ですので、宗像の歴史に興味を持っています。小生、今は静岡に住んでおりますが、母の故郷、津屋崎で大学卒業まで過ごしました。今回、「節婦お政」の中にあった勝浦の永嶋半五郎の件でメールしました。実は母が永嶋半五郎の直系で、よく先祖の話を聞かされましたが、お政の話は知りませんでした。数年前父母はこの世を去り、確かめる術もありませんが、小生の知るところを以下に述べます。参考になりますか・・・?
1.永嶋家の菩提寺は浄土宗大乗院で勝浦にあります。永嶋順一郎(私の叔父)名の御玉やに天保年間の庄屋永嶋半五郎の位牌があります。先月、法事があり見てきました。他にも古い位牌があり、和尚さんに聞けば3代目半五郎のことをご存知かもしれません。
2.母の祖父(永嶋興右衛門、津屋崎初代町長)の代に勝浦から津屋崎に居を移しました。母はその理由を教えてくれませんでしたが、大庄屋の召し上げで転居した可能性も考えられます。浄土宗教安寺に永嶋與一郎(従兄弟)名の御玉やがあります。
3.永嶋家の過去帳があります。1500年頃から記録されていますので、宗像郡誌と照合しながら歴代半五郎について調べてみるつもりです。
以上ですが、イデミーさん、永嶋半五郎について知っておられる事があれば教えて下さい。 (2007年08月19日 01時40分22秒)

完ちゃんへ
すんばらしい。永嶋半五郎の子孫と連絡を取りたいと、前々から願ってました。「唐津街道」の著者・河島悦子氏によると、直系は山口県にお住まい。貴殿とは別の方でしょう。現在、地元では、歴史からも外されているようで、ご子孫は立腹されてたとのこと。私も、旧玄海町で人に尋ねても皆知らないです、半五郎。
私は、神湊の永嶋丸二屋と、勝浦の橋口屋でしたか?屋号をど忘れしましたが、半五郎家は、別系統と思うが、いかに?

半五郎、お上からお役召し上げられた後の傷心旅行で、京、伊勢に行っての帰り、我が一党の恵比須屋(我が隣家)に泊まっています、半五郎日記が津屋崎町役場(今は福津市)にあるそうです。
 それと、恵比須屋より、半五郎の妻になった人を確認して欲しいのですが。
 だから、「おまさ事件」は、伝説とは違い、起こるべくして起こった事件。それは、大黒屋、恵比須屋が二重、三重に結婚を繰り返した一党だったから、それと、永嶋家に恵比須屋から嫁いでいたから、当然、親戚関係をより強固にしようと、みんなして、進めた次第。これは、伝説からは抜けた事実。そういう系図上の、姻戚関係なんか、当時の人でも、分からなかったでしょうからね。 (2007年08月19日 09時28分12秒)

イデミーさん
直系と称される方が山口県にお住まいとのこと、思い当たるのは私の妹(村上姓)しかありませんが、河島氏の話と一致しますでしょうか?もし、違うとすれば、歴史の怖さを感じます。身の回りにある先祖の諸事は疑問の余地もないのですが、声を出さないと真実は守れないのでしょうか?まあ、これはもしもの話で聞き流して下さい。でも、イデミーさんのブログにメッセージを送ってよかったです。
 もう少し小生が知る永嶋家について・・・。
1.宗像郡誌、第4章人物編517ページに永嶋秀太郎が出てきますが、母の父、小生の祖父に当たります。津屋崎の助役を努めたと聞いておりますが、写真も残っております。
2.昔の話ですが、母の叔父が高野山大学を出て、河内長野にあります「観心寺」の住職になりました。現在も住職は永嶋姓です。母が健在の時、私の兄弟一緒に訪ね、旧交を暖めました。

こちらの話ばかりで申し訳ありません。
お話にあります、恵比須屋から半五郎に嫁がれた方のお名前、年号が判れば過去帳を見て判ると思います。それと神湊の永嶋丸二屋、勝浦の橋口屋ですが、別系統と思います。母のうちの屋号は「あますみや(甘住屋?)」でした。
永嶋半五郎の真の直系子孫(二人兄弟、川崎市在住)は健在です。この従兄弟もまだ現役ですので、津屋崎に頻繁に帰ることは出来ません。しかし、津屋崎に母の妹、福間に小生の兄がおりますので一度連絡を取ってみます。半五郎日記の事も話しておきます。
縁は異なもので、恵比須屋と甘住屋との深い繋がりを知ることができました。有難うございました。
(2007年08月19日 12時58分28秒)

完ちゃんへ
>直系と称される方が山口県にお住まいとのこと、思い当たるのは私の妹(村上姓)
>縁は異なもので、恵比須屋と甘住屋との深い繋がりを知ることができました。

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そうそう、甘住屋です。郡誌のどこかで見た覚えがありました、永嶋甘住屋。
当方(蛭子屋)は、永嶋丸二屋とも縁があります。遠賀の底井野の大庄屋・有吉家と丸二屋が姻戚関係、それに私の4親等の直系の後妻が有吉出身です。

名門・永嶋半五郎一党は、1817年の大庄屋入れ替えが大きく尾を引いて、地元からその痕跡が消えつつあると、感じておりました。
宗像郡誌、第4章人物編517ページに永嶋秀太郎を調べますが、郡誌上編 第4章には、永嶋は永嶋半五郎p539~、永島三之丞p582~、以上の2名のみです。
河島女史に山口の方のことを電話で尋ねると、女性です。河島女史が本を発行したのを購入か、津屋崎史本について永嶋家が無視されているとご立腹だった様子。多分に村上さんでしょう。

ところで、「節婦おまさ」を8月22日、アクシス玄海にて、おばちゃま族10数人を相手に講演します。 (2007年08月19日 15時21分33秒)

イデミーさん、早速のご返事有難うございます。山口の妹は3年前に他界しましたが、生前、よく母方の先祖の扱いに不満を言っていました。川島女史に何か申し上げたのでしょうかね?川島様に宜しくお伝え下さい。

宗像郡誌、第4章人物編517ページにある永嶋秀太郎の件ですが、人名の項は忍照様になっていると思います。母はよく忍照様の話を聞かせてくれましたが、その末裔が永嶋秀太郎とあります。正確に説明しなかった事申し訳有りません。
8月22日、アクシス玄海で「節婦おまさ」を講演されるとの事ですが、小生まだ仕事をしておりますので帰省して、拝聴するのは残念ながら出来ません。しかし、兄に連絡してみます。
 昨日今日で随分いろいろな事が判りました。有難うございます。
(2007年08月19日 18時21分06秒)

完ちゃんへ
>宗像郡誌、第4章人物編517ページにある永嶋秀太郎の件ですが、人名の項は忍照様になっていると思います。母はよく忍照様の話を聞かせてくれましたが、その末裔が永嶋秀太郎とあります。-----
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ありました。確かに、忍照p515~のなかで、p517に、その名を見つけ候。
善行のほど藩主の聞く所となり、大に感賞せられ、頂戴物並に賞状を受くること数度、目下津屋崎町へ永島秀太郎は其裔なり。

宗像郡誌に名を残すは、一般的には昭和15年くらい前に亡くなった人物ですが、これは珍しい。まさかの人物(忍照)欄に、掲載。昭和30年代の鬼籍入りでしょうか?そのお孫さんが、完ちゃんですね。これは、これは、りっぱな事跡がありますね。

当方なんか、郡誌の法然寺にある、「この寺に出光家墓あり」なんか、今でも、我が家が墓地管理してますが、誰がみても、かの有名所の墓と見間違われてます。
また、「おまさ」の中に、蛭子屋としっかり出てきますが、今では、屋号はご法度。どこの家か、誰も興味なし。尤も、蛭子屋=出光ってのは、プロの郷土史家なら、分ってますが。1861年でしたか、宇佐宮、香椎宮への行列時に接待した家で、蛭子屋出光運平(私の5親等の先祖)の姓も屋号も公然と残されていますから。
私の伊藤尾四郎(郡誌編集者)への思いは、当時、我が家が貧乏していたので、彼の収集に引っかからなかった、残念。彼は、それでも、いい仕事をしたと評価してます。 (2007年08月19日 21時51分11秒)

イデミーさんへ
いろいろと教えて頂き有難うございます。蛭子屋、いい屋号ですね。小生、屋号に魅力を感じます。○○屋の何兵衛で呼ばれる方が、今の味気ない世の中では得る事のできない温かみを感じます。あますみ屋(甘住屋と書いたか、何か違っているような気もしますが・・)と言う屋号の経緯を知りたいし、愛着を感じます。
出光姓が全国で150位と聞いて成る程と思います。良きも悪しきも、日本人なら誰でも出光石油は知っていても、「出光」は姓と言えば多くの人が「そうなの?」と言う。よくありました。でも、永嶋半五郎より透りはいいですし、宗像を故郷とする人間にとっては大事なワード(失礼)です。

母がよく言ってました。「永嶋家は没落貴族、先祖の自慢は自慢にならぬ。」と。しかし、暗に「先祖の顔を潰すな。誇りを持て。」と。叔父は言ってました。「先祖の繋がりは鎖みたいなもの。時には金色で太い所もあれば、今にも切れそうな所もある。」と。暗に「今は何とか繋げて、先は先。」と。

蛭子屋はちゃんと屋敷も残っているし、しっかりと地元に根を張って生きている感じがします。子供の頃走り回った甘住屋の屋敷は今はありません。イデミーさんが「永嶋家は地元から痕跡が消えつつあると感じる。」と言われた事、身に滲みます。
でも、こうして判ってくれる方もいると思えば、「鎖が消えないように。先は先。」で行きます。愚痴っぽくなり済みません。
昨日、兄に連絡しました。「節婦お政」は知っていました。22日、顔を出すかも?その時は宜しく御願いします。
毎日連絡有難うございます。
(2007年08月20日 23時10分18秒)

イデミーさんへ
いろいろと教えて頂き有難うございます。蛭子屋、いい屋号ですね。小生、屋号に魅力を感じます。○○屋の何兵衛で呼ばれる方が、今の味気ない世の中では得る事のできない温かみを感じます。あますみ屋(甘住屋と書いたか、何か違っているような気もしますが・・)と言う屋号の経緯を知りたいし、愛着を感じます。
出光姓が全国で150位と聞いて成る程と思います。良きも悪しきも、日本人なら誰でも出光石油は知っていても、「出光」は姓と言えば多くの人が「そうなの?」と言う。よくありました。でも、永嶋半五郎より透りはいいですし、宗像を故郷とする人間にとっては大事なワード(失礼)です。

母がよく言ってました。「永嶋家は没落貴族、先祖の自慢は自慢にならぬ。」と。しかし、暗に「先祖の顔を潰すな。誇りを持て。」と。叔父は言ってました。「先祖の繋がりは鎖みたいなもの。時には金色で太い所もあれば、今にも切れそうな所もある。」と。暗に「今は何とか繋げて、先は先。」と。

蛭子屋はちゃんと屋敷も残っているし、しっかりと地元に根を張って生きている感じがします。子供の頃走り回った甘住屋の屋敷は今はありません。イデミーさんが「永嶋家は地元から痕跡が消えつつあると感じる。」と言われた事、身に滲みます。
でも、こうして判ってくれる方もいると思えば、「鎖が消えないように。先は先。」で行きます。愚痴っぽくなり済みません。
昨日、兄に連絡しました。「節婦お政」は知っていました。22日、顔を出すかも?その時は宜しく御願いします。
毎日連絡有難うございます。
(2007年08月20日 23時10分18秒)



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