箱庭

2012/10/30(火)10:57

アメリカAAR 「アメリカ戦記」 第4章

HoI2AAR(326)

1942年6月11日 大日本帝国東京都千代田区海軍省  開戦から半年、日本海軍は批判の矢面に立たされていた。ウェーキ島に進出していたアメリカ海軍太平洋艦隊を出し抜き、真の本拠地たるパールハーバーを破壊したのはよかったが、その後は南方での作戦を優先した結果アメリカ軍の反攻作戦に対抗戦力を送ることができず、ついにはサイパンまで失陥した。唯一の救いは英東洋艦隊を撃破し、南方作戦が順調に進んだことだった。ただ、アメリカに対抗すべく長期自給体制を確立したのはいいが、その見返りがマーシャル諸島からマリアナ諸島まで一気に前線が3000kmも近づいたのでは話にならないのは自明の理である。  大日本帝国海軍大臣 嶋田繁太郎 「連合艦隊(GF)は何やってんのさ?」  大日本帝国海軍GF司令長官 山本五十六 「軽いな、嶋はん。こっちはこっちでやってるよ。蘭印(インドネシア)は押さえたし」 「まぁそうなんだけどさ、なんかこう、イギリスばっかにかまけてないでアメリカの相手もしてあげようよ」 「どちらにせよアメさんとの決戦はやらざるを得ないから。準備は進めてる」 「そうなの? それならいいんだがね・・・」 「で、これが作戦計画書。目、通しといて」 「・・・ふぅん、やっぱりサイパンから取り返さないとね」 「ああ」 「・・・」 「どうした、嶋はん?」 「勝てるんだよね? 負けたらもう本土決戦だよ?」 「心配ないさ。俺はこの戦で、この国を半世紀は先に進めるつもりだからな」 「・・・そう? だったらいいんだけどね」  連合艦隊に所属する諸艦艇が、慌ただしい動きを見せたのはこの日からのことであった。 1942年6月14日 アメリカ合衆国ハワイ準州オワフ島 パールハーバー アメリカ海軍太平洋艦隊司令部  開戦前の1941年2月、アメリカ海軍は戦闘艦隊と偵察艦隊を再編成し、太平洋艦隊と大西洋艦隊を編成した。再編されたアメリカ海軍太平洋艦隊はルーズベルトの命でパールハーバーへと司令部を移し、司令長官にはジェームズ・O・リチャードソン大将が任命された。  しかし、先述の通りパールハーバーは南雲機動部隊によって奇襲攻撃を受けた。かつて、司令部のパールハーバーへの進出時には反対したリチャードソン提督をルーズベルトが更迭し、親しい間柄であったハズバンド・E・キンメルを少将から大将に特進させて新司令長官に任命するという事件が起こっていたため、ルーズベルトはアメリカ軍の最高司令官としての資質を一時疑われる事態に発展していた。  そこをうまく収めたのがキンメルである。過去に演習でパールハーバーの海軍工廠への航空攻撃が大成功を収めたことがあった。その結果から、キンメルは「奇襲攻撃を受ける可能性は十分にあったが、私は警戒を怠った」としてその責を一身に被り、太平洋艦隊司令長官の座を辞任した。後任にはチェスター・W・ニミッツが任命されたが、内幕を知る海軍関係者、そして当のルーズベルトにとっても後味の悪い一幕があった。  開戦時にワシントンD.C.で過ごしていたニミッツはそんな中央のやりとりをよく知っており、キンメル時代の幕僚をほとんど引き継いだ。太平洋艦隊は対日戦の勃発によりアメリカ海軍の保有する空母、戦艦といった主力艦艇のほぼ全力、それを守る多数の補助艦艇を擁しており、それほどの大艦隊の司令部を1から立ち上げるのは厳しいという打算が働いたとも言われるが、「パールハーバーの悪夢は誰の身にも起こり得たことだ」と声明を出して幕僚や将兵たちの信頼を勝ち得るとともに将兵たちの士気を奮い立たせ、指揮官としての才覚を就任直後から示していた。  そんなお上の騒動はさておき、奇襲攻撃から半年が経ち、パールハーバーはダメージから回復していた。港湾施設だけではなくヒッカム、ホイラーといった航空基地、司令部施設も復旧。復旧成った司令部にはアメリカ海軍太平洋艦隊司令部幕僚が詰めており、ニミッツの執務室には日々入って来る情報や情勢を処理すべく情報士官や幕僚らが出入りしていた。その中で、1人の提督がニミッツの執務室を訪れた。 続く。 HoI2集 アメリカAAR

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