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ユダヤが解ると真実が見えてくる

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2012年04月23日
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カテゴリ:ユダヤ史
↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっている

古代
フラウィウス・ヨセフス(ヨセフ・ベン・マタティアフ)は『アピオーンへの反論』でのユダヤ人を擁護する記述の中で、反ユダヤ主義信奉者がユダヤ人の誹謗中傷をヘレニズム世界の各地に蔓延らせていたと述べている。ヨセフスが紹介した中傷は次のような話であった。

アンティオコス4世エピファネスがエルサレムの第二神殿の中に入った際、収監されていた一人のギリシア人男性の姿を見付け、彼が何者で、そこで何をしているのかを尋ねた。するとその男は、ユダヤ地方を訪問中に捕らえられて囚人として神殿に連行されたのだが、そこで食料をたらふく食べさせられていると答える。アンティオコスはさらに質問し、その言葉の意味を質したところ、彼は答えた。「ユダヤ人の律法では、国外から訪れるギリシア人を捕らえて丸1年かけて十分に太らせた後、生贄として神に捧げ、その肉を食べながら全ギリシア人を呪い殺すべく誓いを立てるよう定められている」と。
ヨセフスがユダヤ人に対する中傷への反証のために持ち出したこの屈辱的な逸話は、自らもユダヤ人であったヨセフスがあえて書物に記録したことにより、ヘレニズム期からローマ時代にかけて、この種のデマが流布していたことの信憑性を高めている。

中世
ノリッチのウィリアム:最初の血の中傷 [編集]血の中傷が最初に知られるようになったのは、イギリス東部の町ノリッチで発生したデマによってである。1149年、トマスという名の修道士によって下記のような噂が広められ、瞬く間に有名になったという。ただし、資料学的な検証の末、現在では1144年に起きた出来事と推定されている。

ある日のこと、ウィリアムという名の幼児の遺体が森の中で発見された。その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。事件の調査に当たったトマスは、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。

当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。このユダヤ人に関連して別の歴史家は、彼の偽証は当時一般的に語られていた中傷の一つになったに過ぎず、その背景ではもっと悲惨な事件が多数起きていたと述べている。

当地の権力者等はこの事件に一切絡んでいなかったため、その責任はトマス一人にあるといえるが、彼が確立した血の中傷は作者を離れて独り歩きし、その後に誕生する何百というバリエーションのプロトタイプとして世代を通じて語り継がれてゆくのであった。

ブロワ
1171年にはフランス中部の町ブロワでも血の中傷が発生したが、いくつかの点で特殊な事例であった。

遺体の発見や幼児の行方不明といった伏線がない状況で発生した。どうやら、あるユダヤ人とキリスト教徒の使用人がすれ違った際、加工された皮の包みをユダヤ人が落としたことが火元になったと見られている。使用人はその皮が子供の遺体から剥ぎ取られたものと疑って、すぐさま主人に報告した。その主人は以前にユダヤ人の富豪ともめた経緯があって、復讐の機会を窺っており、その報告を好機と見たのである。
その他の事例とは違って、この件にはブロワの権力者も積極的に絡んでいた。それは当地におけるユダヤ人がらみの裁判を円滑に進めることを目論んでいたからである。
この事件は、32名(一説では40名)のユダヤ人が、家の中に閉じ込められたまま建物ごと燃やされるという、痛ましい結末を迎えている。
ブロワにおける惨殺によって大変な衝撃を受けた同時代のユダヤ人たちは、その日を心に刻み込むためにシバンの20日を断食日に制定した。その制定は、今日ではラベィヌー・タム(ラビ・ヤアコブ・ベン・メイール)の一連の業績の一つに帰されている。また、当時行われた断食については、ゲダルヤの断食よりも大規模なものであったと伝えられている。

ボン出身のラビ、エフライム・ベン・ヤアコブは自著"??? ??????"(追悼の書)において、ブロワのユダヤ人の受難を次のように描写している。

「女性や子供をも含めた共同体の全住民が賛美歌アレィヌーを口ずさみながら積み上げられた薪の上に載せられた。厳かな低音の声で祈りは続いたのだが、最後には悲鳴と絶叫に変わっていた。そして全員で声を合わせて『アレィヌー・レシャベァフ』と祈った後、火の中で燃え尽きた。」
プルダー
1235年、ドイツのプルダーにて、キリスト教徒の粉引きの息子5人が森の中で惨殺されるという事件が起きた。すると瞬く間に、その町の32名のユダヤ人が復讐心から子供たちを殺したというデマが広まった。

事件当時のプルダーには、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世も滞在していた。彼はすぐさま調査に協力し、キリスト教に改宗したユダヤ人学生を集めて、参考までに彼らの意見も聞いてみた。すると彼らは、ユダヤ教の儀式でキリスト教の血を使うなどありえない、と断定的に答えたのである。フリードリヒは彼らの言葉を信じ、血の中傷が単なるデマであるとする勅旨を公布し、そのデマを広げた責任者たちを厳罰に処した。

1247年にはローマ教皇インノケンティウス4世も血の中傷の問題の対処に乗り出し、各地の大司教、及び司教宛に次のような手紙を送っている。

「権力の要職にある者たちがユダヤ人の土地を略奪するためにドイツ全土にて蛮行を働いていると彼らは抗議しているが、我々はその抗議を全面的に受け入れる。これらの蛮行に加担した者たちは、キリスト教の教義がユダヤ教の旧約聖書の上に立脚していることを忘れた愚か者である。旧約聖書にはこのように書かれている。『殺すなかれ』と。あなたたちはユダヤ人が過越祭において子供を殺してその死体を食べていると訴えているが、彼らは過越祭の期間中、死体に触れることさえも許されていないのである。あなたたちは殺人事件で容疑者が不明の場合、いつでもユダヤ人にその罪を被せている。しかも十分な捜査は行われず、目撃証言もなければ裁判も開かれず、あまつさえ抗弁や自白さえもまいまま、ただユダヤ人を迫害したいが一心に愚かな蛮行を繰り返している。ローマ教皇庁の慈悲によってユダヤ人に土地の所有権が与えられていることに不満を抱いている者は、彼らに対して監禁や尋問といった様々な虐待を加えた挙句、極刑に処している。なればこそ、敬愛すべき兄弟であるあなたたちに忠告する。初心に立ち返り、法に背かないよう自戒しなさい。また、ユダヤ人に非がある場合以外は、彼らに対するいかなる迫害をも許してはならない。」
この文面はインノケンティウス4世に続く歴代の教皇によって、繰り返し引用されていた。

リンカン
1255年、イングランドのリンカンにて、貧困層の子供が森の中で行方不明になった。遺体は井戸の中から発見されたが、容疑者として真っ先に疑われたのはユダヤ人であった。尋問の末、彼らの中の一人が罪を自白したものの、その自白は減刑には結び付かなかった。彼は馬の尾に結び付けられて市内を引き回された挙句、その他17名のユダヤ人と共に処刑された。

それから200年後の時代の詩人ジェフリー・チョーサーは、『カンタベリー物語』の逸話「女子修道院長の話」の中で、リンカンでの血の中傷を取り上げている。






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最終更新日  2012年04月27日 06時41分59秒
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