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2021.12.24
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カテゴリ:歴史
今度はエジプトだな。エジプトはアンデスに比べればさほど頻繁でない。もうヤフコメの無知コメは無視する。



また新しいミイラが発見されたらしい。今回のはローマ属州時の物もあるようだが、以前も合わせいずれの墓やミイラ発見には共通点がある。それは、どれも2500年前あたりの物。当然、3000年の歴史があるエジプトからすればかなり新しい。何故この時代に集中しているのか?
 
今から2500年前は、約紀元前7世紀〜6世紀あたり。エジプトでは末期王朝にあたる。歴史の教科書なら「異民族に支配された」などとさらっとしか書かれない時代。具体的には、エジプトはアッシリア帝国の支配下におかれていた頃。紀元前10世紀あたりから強力な騎馬で猛威をふるったアッシリアは、人類史上初の帝国を築く事となる。エジプトやバビロンはじめ名だたる国を次々支配、そしてユダヤ人などには旧約聖書に、後々まで残すであろう怨みを書かれる事となる。
 
アッシリア帝国はなんと言っても残虐非道なまでの強さが特徴。騎馬遊牧民並みの騎馬を駆使、馬も良質かつさらには馬の品種改良もしていたと言われる。宮廷の庭にはライオンなどを放し飼いにし狩りをしていた。狩りはスポーツや娯楽代わりのみならず、実戦での模擬戦も想定していた。今のトルコやイラクあたり、さらにはインドにも紀元前まではライオンがいたがそれらはアッシリア人などにより狩られ絶滅してしまった(アッシリア人だけが西アジアのライオンを絶滅させた訳ではない)。

また官僚機構などを整え、王を頂点とするピラミッド型の階級統治を完成。さらに役職に至っては200近くもあったという。属州やそれを統治する総督など地方支配も万全であり、属州制度だけを見ても後のローマを彷彿とさせる。

アッシリアに敵対していたある国はアッシリアに侵攻するも返り討ちに遭い、敵王はアッシリア王アッシュル・バニパルに討ち取られ首を庭に吊るされてしまう。アッシュル・バニパルはそれを肴に勝利の宴会を催したという。実際に大英博物館のアッシリア回廊にその宴会を描いたレリーフがあるが、まるで浅井の首から作った酒坏で酒を飲み干す信長のようである。このように敵対、またはアッシリアに目をつけられたら最期、強力な騎馬で蹂躙され生き残りがいれば顎や手に縄をくぐられ、さらには唇にすら穴を開けてまで縄を繋がれ奴隷にされるなど、歯向かおうものなら破滅が待ち受けていた。
 
さらにユダヤ人。おそらく一番アッシリアに怨みがあったのだろう。旧約聖書にはアッシリアへの怨みつらみしか書かれてない項(ナホム書)があるほど。何故ここまで怨まれているのか。当然重税や重労働などの圧政もあるが、一番の答えは強制移住(捕囚)である。

紀元前722年にアッシリアはイスラエル王国の都サマリアを包囲し陥落、事実上ユダヤ人を支配下においた。大英博物館にある黒色オベリスクには、支配されたイスラエル王が周りの従者と同じ服装でアッシリア王に平伏する様子が刻まれている。この時のイスラエル王エヒウはアッシリアに属国として従っていたがため100年近く王朝を維持出来ていたが、それと引き換えに王自体アッシリア王の臣下扱いであった。さらにはユダヤ人はじめ支配民を様々な国や土地へ無理矢理移住させた。ユダヤ人がバラバラになった理由の一つがこの捕囚であり、さらに現代に繋がるパレスチナ問題のすべての根源でもある。

アッシリアは何故補囚を繰り返したのか。まずアッシリアは戦の際、本国からの兵に加え戦地に近い属州から兵を調達していた。属州には異民族だけではなく兵士も駐屯していたため、兵士や
食料なども属州から調達、これ自体が兵站を補う要素でもあった。もちろん平時でも労働力を要する時いくらでも狩り出せるようにというシステムで、当然これはローマなど後の帝国も同様である。また平安や鎌倉の日本のように紀元前世界は土地があるからこそ財産や力が成り立つのであり、他の土地に行く、または手放すのは無一文、または力を削がれるに等しい。アッシリアは一度のみならず何度も何度もそれを繰り返した。
 
だがアッシリアへ対するこれらの怨みが祟ったのか、バビロニアなど反アッシリアにより攻められアッシリアは崩壊。かろうじて亡命政権が成立する。果たして、アッシリアに支配されていたエジプトは亡命政権を攻めたのか。
 
答えは、なんと亡命政権を攻めるどころか援軍を送り支援しようとすらした。だが間に合わず新バビロニアにより亡命政権ごとアッシリアは完全に滅ぼされる。何故ユダヤ人にあそこまで怨まれるような国をエジプトは支援しようとしたのか。実は、支援とは名ばかりであり、本当は逆に亡命政権を乗っ取りアッシリアを支配しようとしていたのである。結果的に間に合わなかったが。
 
このように末期王朝期のエジプトは惨めと言わざるを得ないほど弱体化していた。アッシリア支配前にも実はヌビア人により国を支配されていたが、それはエジプトの弱体化を憂いたヌビア人がむしろエジプト本国を復興しようとしたものだった。だがアッシリアの侵攻によりヌビア人は逃げてしまう。ヌビア人にしろアッシリアにしろ、様々な勢力に支配され続けるエジプトの弱体化は依然として変わりはなかった。それを何とかしようとしていたのがサイス朝である。先のアッシリア亡命政権を支援または支配しようと援軍する、または海軍力やギリシャ人傭兵を雇い国力を増強(ギリシャ人傭兵を住まわせるための都市ナウクラティスを作った、または作らされた)など、涙ぐましい努力が垣間見える。
 
そんなサイス朝であるが、時期的に今発見が続いているミイラはまさにこのサイス朝の頃の物である。しかも、ミイラが発見された墓の大半はサイス朝の物ではなく、それよりも前の時代の墓である。なんと、数百数千年前の先祖の墓にわざわざ葬っていた事になる。これは王家の谷のような墓荒らし対策ではない。あえてである。
 
何故こんな事をしたかと言えば、強い「あの頃のエジプト」に憧れがあったため。ピラミッドを築いたクフ、アクエンアテン以降続いた100年近い混乱を収束させたセティ一世、その息子、ヒッタイトと対等に渡り合ったラムセス二世。アッシリアに支配またはその力を手にしようと、またはギリシャ人傭兵に頼るなど先代のファラオ達に顔向け出来ないほどの有様であったサイス朝はせめて、偉大な頃のエジプトに戻ろうという決意、国威発揚に相当するような運動として先人の墓に死者を葬る事を行っていたのではないだろうか。当然これらのミイラには可哀想など該当せず、むしろ明るい希望すら込められているのである。
 
まだまだ発見されるだろう。強いあの頃へ戻れるという祈りが込められたミイラが。





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最終更新日  2024.03.19 07:51:37
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