カテゴリ:おでかけ
女流画家といえば、先ず、宮尾登美子先生の小説「序の舞」のモデルとなった上村松園画伯が浮かぶのであるが、あとは・・となると、ワシの場合、融紅鸞画伯が頭の片隅に浮いてる程度である。 で、松本華羊画伯についてなんだが、どうも、上村松園画伯から、融紅鸞画伯を繋ぐ中間の役割を担った方のようだ。 融紅鸞画伯が画家を目指した理由について、孫引きで申し訳ないが、展覧会図録の中で、北川先生が、融紅鸞画伯の文章を引用し記されている。 「女優志望の夢やぶれ、くさっていた頃丁度閨秀画家花やかなりし時代で、その当時やかましかった島成園、木谷千草さん等が、画の前にすわって羽ボウキや、筆をもってニッコリ笑っておられる姿がよく新聞に出ていたので、ああコレヤと、フラフラッとなってしまった。(融紅鸞『極楽女房』六月社刊再販、昭和32年1月) 島成園画伯とは、上村松園画伯より17歳下の大阪を拠点とした美人画家で、東京の美人画家、池田蕉園画伯を含めて、3人の園が付く売れっ子女流画家つうことで、「三都三園」とも言われていたらしい。 このうち、池田蕉園画伯は、1917年31歳で夭逝され、「三都三園」時代も終わったとのことである。 で、松本華羊画伯に話を戻すと、当初、池田蕉園画伯の門弟であり、同じく池田門下の木谷千草画伯と前後して、大阪に移り、木谷画伯の他、1歳年上の島成園画伯や岡本更園画伯と、「女四人の会」を結成され、活躍されたつうことだ。 即ち、融紅鸞画伯が憬れた、画の前にすわって(略)笑っておられるひとりだったつうことだ。 今でいえば、アイドル4人娘つう感じだったのだろうか。 先ずは、展示された絵よりも先に、この4人が並んだ写真(上口絵)の方に目がいってしまった。 全員が美人であることは当然として、その視線である。 カメラ目線なのは、右の松本華羊画伯のみで、あとの3人の視線は違う方向を向いている。 どの視線をすれば、最も自分らしい、あるいは、美しい自分に写るのかつうことで、ポーズを取られていて、全体ではバラバラになってしまってる感じなのだ。 まさに、大正期を彩った大阪の女性の代表であり、少女であった融紅鸞画伯の憧れの対象だったのだろう。 が、今回、松本華羊画伯の没年が確定したように、岡本更園画伯の没年も未だ不明だとのことである。 松本華羊画伯についていえば、結婚後もしばらくは、絵画サークルに参加しているようなんだが、やはり、主婦としての方に力点が移り、その死は、かつての仲間に知らされなかったかもだ。 他の2人についても結婚が、活躍に影響はしている。 これも今どきのアイドルと変らん感じだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.12.04 22:06:30
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