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業界人の友人が風邪をひいたのでLondon Poetry Film Festivalというイベントに一人で行くことになった。なんてことないイーストエンドの映画館でアマチュアっぽい短編映画を見せるイベントだった。スーツに帽子をかぶった男と緑のヴェルベットのドレスを着た金髪女が舞台で口上を述べていた。「Poetry Filmというのは詩的言語と映像が融和したものなんですよ。タルコフスキーとかルイ・ブリュネルとか…」私は聞いていて顔から火がでるぐらい恥ずかしくなった。拍手がぽろぽろと響いた。
主催者の帽子男と緑ヴェルベット女がつくった映画はひどいものだった。山の中で茸のヴィデオ・イメージを撮って「Eternity…Fade…F a d e…F a d e….」という文字を被せていた。静止しているはずの画面がゆらゆらと手ぶれで揺れていた。彼らのほかの映画は彼らの生活とか価値観が見えた。おおきいコーヒーカップをにぎって温かいカフェラッテをすするのが好きらしい。読書も当然大好き。自己満足の度合いが鼻についた。 主催者の2人が書いたアントナン・アルトーもどきのイメージがちらほらする詩は「何とか賞」を取っただけあって悪くなかった。しかし、花柄のついたような派手な言葉はえらく浮いていて、映画とはまったく異質のものだと思った。 主催者以外の“Poetry Film”には悪くないものもあった。でもそれは、ドキュメンタリーやアニメーションや短編映画として優れた質をもったものであって、別に詩とはあまり関係がなかった。Poetry Filmとかいうのは、文才のある人に映画をつくるテクニックがなくてもとりあえず短編映画をつくってみましょうと薦める運動なのだと思った。 前衛映画と現代詩が好きだったという暗い過去をもつ私には、このイベント全体には「前髪だけパーマをあてた過去の自分の写真をみるような恥ずかしさ」を感じた。(詩的だなあ) 前半のインターバルで半分近くの人が帰ってしまったにもかかわらず私は最後までしっかりと参加し、挙句の果てにはバーで意気投合した中国人のへたくそな詩を聞くはめになったのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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