上昇気流に乗って

2010/09/21(火)20:03

二つのゆるす。

自分を見つめる(421)

ふと思ったのだが、「ゆるす」と言うことには二種類あるな、と言うこと。 一つはどうでもいいので、何やってもいいよと放置に近い「ゆるす」と言うこと。 どちらかと言うと放置に近いかもしれない。 何をやってもいい、何をしても怒らない。 そうすると他人によっては、結構何でも許してくれる人だと勘違いして、結構とんでもない暴挙に出ることがある。 挙句の果てに人の逆鱗に触れて、怒られたのを逆恨みし、 「そんな人だと思わなかった」 と言って去っていく。 どちらかと言うと、何でも、どんな暴挙でも許されると勘違いする方がどうかと思うのだが。 どちらにしても相手を認めていない、という点があるかもしれない。 もう一つは相手を認めているからこその「ゆるす」と言うこと。 こちらは信頼も伴っているな。 最低限のルールは守る。 礼儀を知っている。 どんなふうでも、相手を尊重する余裕がある。 そう言う人になら、何をしても「大丈夫」という信用がある。 何かあっても、絶対的に相手を傷つけたり、不利な状況に落し込んだり、奪略したりしないというそう言うモノ。 だからこそ許せる。 一見似ているけど、これはかなり差があるな。 私にとって後者の許すをしている人は結構限定されている。 本当に信頼できると思った人にしか、それはしていない。 大抵の人に対しては前者の「ゆるす」だな。 自分の大事な領域に踏み込まない限り、どうでもいいのでゆるしているというのが殆どだな。 つまり無関心なのかもしれない。 一々何か言っても仕方がない、という諦めも含んでいるな。 同時に常に警戒している。 「こいつヤバいかな」 と思う人は結構いて、よく観察している。 そう言う人はたいてい、暴挙に走ることがある。 ゆるされているから、何をしてもいい、と言うことはまずあり得ない。 守るべきものは守る、尊重すべきものは尊重しないといけないと思う。 ましてや相手が人ならば、その人の意見と言うモノがあり、押し付けたり、コントロールしようとしたりしてはいけないと思う。 ゆるしてくれる人ほど、礼儀と感謝を持って接したいと思う。 緊急時だろうと、非常事態だろうと。 その二つを失くしてはいけないと常に思う。 やっていいことといけないことは常に心していたい。 それは翻って、自分自身への扱いへも繋がるんだと思う。

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