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うりぼうず

うりぼうず

戦争系

 ●戦略論(リデル・ハート、原書房)
 イラク戦争で、開戦当初にアメリカが行った電撃戦。ハートの間接的アプローチをたくみに運用した作戦だったんだろう。どこでも、軍人は頭が固い。十分に戦力を蓄えなければ、戦闘に踏み切れないとする軍主流に比べれば、国防長官の相手を混乱させ、とにかくスピードを重視する戦略は、見事だったのだろう(もちろん、どう戦っても、通常戦でイラクに勝ち目はなかったが)。
 ただし、彼らはリデル・ハートを最後まで読まなかったのか。政治家は、常に「大戦略」として、戦争の終わらせ方を考えなければならなかったのに。あきれるほど、何も考えていなかったような、イラク戦のその後である。
 「戦略論」自体は、とっても難解で、ワタシのようなものには読みこなせなかったが、イラク戦争を見ると、リデル・ハートの視点の鋭さがわかるような気がした。

 ●「電撃戦という幻想 上、下」(中央公論新社)
 第二次大戦初期のドイツの西部戦線での攻勢が、いかに綱渡り的に、いかに一部の革新的な軍人のアイデアで進められたか、けっこう詳細に書いてあって興味深かった。歴史の必然というが、非常に偶然の要素も強いことが理解できます。「強力なドイツの機甲部隊」というものが、兵器の質から言えば、きわめて非力だったこと。優秀な指揮官といっても、本当に優れたアイデアを出せたのは、一握りにすぎなかったこと。ただし、組織として、フランスより、はるかに柔軟な組織であったことなど。
 日本と比較すると、どうなるのだろう。

 ●「イスラムのテロリスト」(黒井文太郎、講談社+α新書)
 この本によれば、イスラムテロにおけるパキスタンの地位の大きさに改めて驚かされる。そもそも、パキスタンは米国よりとされ、核実験のあとの経済制裁も、日本も含めていつの間にかウヤムヤにされてしまった。
 ここに現れるのは、「敵の敵は味方」とする思考法。イランコントラ事件を見るまでもなく、アメリカとイランでさえ、場面によっては平気で手を結ぶ。相手を打倒するためならば、敵へのテロ集団の育成を図る。別にアメリカに対する非難というわけではない。どこでもやっていることなのだろう。
 現実的といえばそれまでだが、これらの手段の危険性大きい。他の勢力を利用すると行っても、どこまでもそれをコントロールできるわけではない。いったん流出したノウハウは、それ自体が生命体のように、自己増殖、進化をとげる。
 リデル・ハートが、第二次大戦中のフランスレジスタンスへの支援に対し、疑問を呈しているが、それよりもはるかに統御の利かないものを、「敵の敵は味方」という理論が招いたのではないだろうか。
 イスラム、その中でも、シーア派の教義に根ざすところも大きいとされるテロ。もっとも、筆者も断っているが、テロは必ずしもイスラムの専売特許ではない。日本だって、張作霖爆殺など、堂々たるテロの歴史を背負っているのだから。

●「日露戦争と日本軍隊」(大江志乃夫、立風書房)
 今年は日露開戦100年。「坂の上の雲」以来、日露戦争を好意的に評価する向きが多い。この本は日露戦争そのものよりも、むしろ日清戦争の結果として生じた台湾征服戦争などから説き起こし、日露戦争を可能ならしめた日本の兵器生産状況、天皇と民衆などにみる戦争への意識、軍事行政などの面から日露戦争を分析している。
 中でも、今まで日清戦争は日清戦争として完結していたという思い込みがあったが、その後の台湾征服戦争(いわゆる台湾出兵ではない)の大きさには驚かされた。台湾住民の抵抗運動が、いわゆる山地少数民族による(霧社事件などのような、はるか後になって発生したものしか、ワタシの頭にはなかった)ものだけでなく、平地の移住者である漢民族との間に戦われたものも、長く続いた。日清戦争中の期間に限っても、戦闘で527人死んだのに対し、戦病死が3971人にもおよんでいる。さらにその後のゲリラ戦への対処の過程も含めれば、台湾だけで戦闘死1988人、戦病死7604人と、日清戦争に匹敵する数字となっている。
 (当時は、タマに当たるよりも、マラリア、脚気などによる死者の方がよっぽど多い。いわゆる日清戦争でも、戦闘による死者が1161人なのに対し、戦病死が7234人に上っている)。
 そして、この陰にははるかにそれを上回る、台湾人(中国系、マレー系民族を合わせた)の犠牲者がいたことになる。
 これは、完全な植民地征服戦争であったわけだ。知っている人にとってみれば当然なのだろうが、この植民地獲得によって得られるものは、後に一大産業になった砂糖ではなく、防虫などに使われる「樟脳」であったとは。


 ●「ガリポリ~最大の勇気と最大の愚行」(アラン・ムーアヘッド、フジ出版社)
 第一次世界大戦で、膠着した西部戦線の状況を打破しようと企てられた「ガリポリ作戦」。地中海と黒海を結ぶ、ダータネルス海峡を制圧し、ロシアとの連絡路を確保するとともに、首都イスタンブールを突いて、トルコを同盟国側から脱落させようとしたが、作戦の発動が遅れたうえに、作戦ミスも重なり、ドイツ・トルコ側が防備を固め、結局狭いガリポリ半島にオーストラリア、ニュージーランドのアンザック軍団を中心とする部隊が釘付けにされた作戦。
 10年ほど前に、トルコ旅行をしたときに、小アジア半島のチャナッカレ付近から、対岸のガリポリ戦の記念碑らしきものをみたような記憶がある。
 この戦闘で、英雄となったのが、近代トルコの父ケマル・アタチュルク。この本に限ったことではないが、戦争において、求められるスピード(部隊移動や決断の速さなど)の重要なこと。連合軍がガリポリ半島の突端に釘づけにされ、その打開策として、付け根のスラブ湾に連合軍が上陸したものの、すみやかに前進しなかったため、そくムスタファ・ケマルが即座に反応し、戦略的要地を押さえたために、結局連合軍の作戦は失敗に終わる。そもそも、ドイツ、トルコ側にほとんど備えのなかった時に、迅速な作戦の発動をしなかったこともこの本のタイトルにある「最大の愚行」につながったようだ。
 この、愚行と表現される戦闘だが、オーストラリア、ニュージーランドのアンザック部隊にとっては、建国以来最初で最大の激戦として、未だに「最大の勇気」を誇る物語として語り継がれているものという。

 ★「謎とき日本合戦史~日本人はどう戦ってきたか」(鈴木眞哉、講談社現代新書)
 日本人の戦争観に根強い「白兵志向」の虚偽を笑い飛ばす本。源平の時代の勇者、鎮西八郎為朝は、強弓の使い手として知られていたのであって、決して、剣術で名をなしたわいけではない。当たり前のことなのに、日本の戦いでは、刀の威力が不当に高く評価されている点に疑問を投げかけている。長篠の戦いが戦術革命であったかのように伝えられるが、そもそも日本では、将門の昔から、弓が主平気で、刀など、手傷を負った敵方の首をとるぐらいにしか使われなかったと記している。
 そりゃそうだろう。刀で切りあうのは、とっても怖い。しかも、飛び道具を相手にしては、自分がなにもしないうちに破れることは必定である。戦国時代など、自分こそが大事で、無鉄砲(まさに読んで字の如し)では、御家の存続もあったもんじゃない。弓が主体で、それが鉄砲に変わっただけ。
 日本刀の威力が神話になったのは、江戸時代。あの「武士道」と同じ。実際に命をかけて戦うことのなくなった連中が、自らの存在意義を強調するためにでっち上げた(自分では、信じていたのだろうが)ものに過ぎないようだ。
 さて、時代は変わり幕末。西洋の圧倒的な火力を目の当たりにした日本では、火力中心主義が発達。しかし、当時のヨーロッパでは、実は白兵主義がまだ根強かったという。サーベルをかざした騎兵の突撃が、普仏戦争などの時代でも当然視されていたという。それがようやく無駄なものと理解されたのは、実に第一次大戦。しかし、明治の初めは火力主義に転換した日本だが、日露戦争の勝利を喧伝していく上で、自ら日本精神の優位性という神話にだまされたようだ(なんともアホだが)。もっとも、これには火力を集中しようにも、工業力が不足しており、それをごまかすためという側面もあったようだ。
 ちなみに、これを読んでいて驚いたが、幕末の馬関戦争(四カ国艦隊の下関砲撃)での死者は、欧米側十二人、長州側18人に過ぎなかったとのこと。(薩英戦争にしても、似たようなもので、実は英国側の死者の方が多かったらしいが)。幕末の攘夷論者など、それくらいの被害で完全に屈服したとは。せめて、100人ぐらいは死んでいたのかと思ったが。

 ★「スターリングラード~運命の攻囲戦1942-1943」(アントニー・ビーヴァ、堀たほ子訳、朝日新聞社)

 言わずと知れたスターリングラード攻防戦。よく、戦記などで取り上げられるが、これほど、克明にこの戦いの実相を描き出したものは初めて。この本の特徴として、数多く取り上げられるのは、一般の兵士たちの手紙(その多くは、輸送機の撃墜などで、家族のもとには届かなかった)、戦死者から集められた日記(敵軍の情報を得るために、お互いが収集。もっとも、赤軍兵士の日記はなどは、あまりないが)。もちろん、検閲などもあるので、それが必ずしも、兵士たちの本音というわけではないのだろうが。
 また、赤軍では一万人以上にも上る、処刑が自軍の中で行われていた。無理な命令にたいして、少しでも意義を唱えると、戦場における臆病な行為、あるいは利敵行為として。ドイツ軍の中でも、赤軍に比べれば少ないが、多くの処刑が行われている。
 また、ルーマニア、イタリアなどのドイツの同盟諸国の兵士たちの悲惨な戦い。ろくな教育も受けておらず、なんのための戦いか(もちろん、独ソ両軍とも、なんのためかわからずに戦わされた兵士もおおいだろうが)わかならないまま、劣悪な装備と、無能な上層部によって、多くが故郷に帰ることが出来なかった。
 その一方で、「英雄的な」行為の数々。(もちろん、英雄的といっても、「敵を殺す」といった次元だが)
 単に、スターリンの名に魅せられた二人の独裁者によるおろかな行為という視点だけでなしに読ませてくれる。
 
 赤軍兵士は、拙劣な指揮のもと、無謀な戦いに参加させられ、ほんのささいな行為で共産党によって、処刑され、ドイツ側に逃亡する兵士も多数に上った。しかし、ドイツ側に降伏しても、多くは捕虜収容所で、虐殺され、あるいは食料を与えられないまま餓死し、ドイツ側にたって戦う兵士もいたが、赤軍に逆包囲され、再び赤軍につかまり殺害されるか、雪原で凍死するかの運命しかなかった。
 ドイツ側にしても、戦闘中から飢餓状態に陥り、捕虜になっても、大半はロクな食料も与えられず、過酷な労働、さらには、戦後も多くが抑留され、ドイツ本国に生きて帰ったものはわずかだったという。
 戦場における死者のうち、弾に当たったのはわずかで、その多くが餓えや病死、しかも、その大半が、天皇が降伏するのに躊躇していた最後の半年だった日本も他人事ではない。

 ★「軍事革命(RMA)~情報が戦争を変える」(中村好寿、中公新書)
 2001年に発行された本書だが、まさにラムズフェルド戦略がイラク政府軍を相手に行った作戦を予言したような本である。しかも、ラムズフェルドと同様に、その後の展開を予想しえていないのもまた、驚くべき事実である。
 もちろん、RMA軍に対抗するさまざまなシュミレーションも行っているが、それはイラクで起こっていることとは異なる。いや、同時テロにしても同じだが、圧倒的に強力な敵に対しては、どんな手段でも許されると、相手に思わせたことが、この戦略の最大の弱点ではないだろうか。60年前に、彼我の軍事力の違いに絶望的になったある国が、自殺攻撃を正当化したように(これは、敵に対してではなく、自軍に対して正当化したというべきか)自爆攻撃という手段を開発したのは、まさにこの戦争の情報化による圧倒的に優位な体制そのものではないだろうか。
 合理的な思考では、そこが予測しえなかったのかもしれない。
 リデル・ハートがゲリラ戦を嫌悪していたのは、そのあたりを感じ取っていたのかもしれない。
 あと、この本がナポレオン戦争を工業化時代の戦争としたのは、ちょっと違うのではないかという感じがした。大量動員という戦争方式は、まさに工業化時代を予言させるものかもしれないが、武器その他は工業生産とは言いがたい時代だったような気がする。
 また、ドイツの電撃戦に対する評価は、あれは必ずしもドイツ軍全体が統一的な意思のもとに行ったものでなく、グデーリアンなどのハネッカエリの行動と、それに応じた一線指揮官の判断が結びついたものではないだろうか(電撃戦という幻想を参考)。

 ★「戦争と罪責」(野田正彰、岩波書店)
 ★「軍備拡張の近代史~日本軍の膨張と崩壊」(山田朗、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
 日露戦争までは、火力中心主義だった日本陸軍が、日露戦争を境に、白兵主義に陥っていく歴史、あるいは、欧米各国と同様に、ド級戦艦の建艦競争に走った経緯などが、わかりやすく書かれている。自分が知らなかっただけとはいえ、1933年に20パーセントだった現役徴収率が、37年に25パーセント、40年に50パーセントに達したなどという数字を見せられ、33年でも徴兵された人間は、せいぜい5人に一人だったことを初めて知った。しかも、40年に至っても、50パーセントだったとは。もちろん、大勢徴収しても、それだけカネもかかるのだろうけど。一面では、当時の若者の結核などの罹患率も高かったということなのだろうか。
 いずれにしても、所詮、低い経済力の国が無理して軍拡に突っ走ったツケが、太平洋戦争のあらゆる局面に現れてくるということか。
 ★「戦争学」(松村●、文春新書)
 元防衛庁の幹部による本。リデル・ハートの戦略論と同様に、古今の歴史から、さまざまな戦訓を導き出す形をとっている。ハートとの違いは、より、兵器の進歩による変化を重視しているというところか。トータルでみれば、「間接的アプローチ」を、単なる戦術だけではなく、国家戦略にまで敷衍したハートの方が、より雄大な体系を築き上げているというところか。
 でも、あの難解な戦略論よりは、ずっとわかりやすかった。もっと、地図があるといいのだが。


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