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カテゴリ:マネー・経済
また、ケーザイのことをつらつら考えてる。すんごく的外れかもしれないが、せっかく考えたのでここに記録してみよう。後で読んで呆れるかもしれないけど。
ケーザイは社会の中でのお金の流れ。ケーザイを回すというのは世の中でお金を回すこと。 お金を回すとどうなるの?生活が豊かになる、と書いてある本もある。自分で作れないものを、お金で手に入れて、生活を豊かにするんだと。 でも、物質的に満たされるだけでは、人の生活は豊かにならないんじゃない?もし人間が生まれた直後から人の手を離れて、機械だけで育てられても(それに近い実験が過去にあったらしい)、その人の人生は豊かなんだろうか?機械を通してのみ、モノを入手して、「アリガトウゴザイマシタ」も機械からしか聞かなかったら、どんな人間になるんだろう?そもそも、「アリガトウゴザイマシタ」の意味もわからないかもしれない。 人はお金を使うことで、その先にいる人と繋がっているのだ。 買い物依存症の人には、孤独感を感じている人が多いと聞いたことがあるが、買い物を通じての相手とのやり取りで、孤独感を埋めているのだと思う。基本的に、買い物でネガティブな言葉がけをされることはないので安心だし。 (そういえば、子供が赤ちゃんだったころ、スーパーのレジの人と話すのが日中唯一の会話だった。コロナ禍の初期も、人と話す機会が極端に減って、口を動かさないと顔の筋肉も硬くなって、気持ちも固まっていたと思う) 人とのやり取りをするための媒体として、お金がある、と考えた方がいいのかも。 田舎なら、野菜をもらったり、子供をちょっとの間みてもらったりと、お金を介さなくても気持ちのやり取りは充分できている。 初めに、お金を回すことは生活を豊かにすること、自分で作れないものをお金で入手して生活を豊かにするのだと書いたけれど、昔は百姓は文字通り百の仕事をしていて、作物も作るし着るものも作るし、大工仕事もするし(家も自分で建ててた)、生活に必要なものは自前で作っていた。人手が必要な大仕事の時には隣近所で協力しあって、お礼はお金じゃなくてモノ(作物とか)やサービス(次回、相手が人手を必要とするときに協力するとか)であることも多かっただろう。むしろ、気持ちまでもお金に換算されがちな今の時代の方が、心は貧しい、 元々気持ちのやり取りで回していた暮らしを、お金で回すようになっていったのに、いつの間にか、お金でしか回せない暮らしにしてしまったように感じる。お金でしか、というのは間違いか。一部気持ちで回す部分も残っているから、かろうじて人は人でいられるのかもしれない。100%お金だけで回るようになったら・・・?人間なんて不経済なもののトップとして、消されるかもしれない。そしたら、ケーザイは誰のため、何のためにあるのか、わからなくなりそう。 IQ(知能指数)とEQ(心の知能指数)があるように、ケーザイにも、お金基準の指数と、心の経済指数みたいなものがあれば面白い。 (メールフォームを作ってみました。お問い合わせはこちらから) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 24, 2020 08:06:50 AM
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