▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼
(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓)
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
♪♪
○【5】よみがえり。いのち。
今までは、「いのちのパン」、「世の光」、「門」、「良い牧者」などと、すべて比喩で語られたのですが、この「わたしは、よみがえりです。いのちです。」はそのものズバリで語られました。イエス・キリストは、間違いなく「よみがえり」であり、「いのち」そのものであります。どのような道徳家も宗教家も、キリストのように「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と語ることは決してできません。イエス・キリストはすべてのいのちの根源なる御方であり、生きとし生けるものすべてのすべて、彼によって造られ、いのちを与えられ、生かされ、そして、今のこの瞬間にも、キリストによって私たちのいのちは支えられているのであります。ここに記されているラザロは、キリストを信じる者が永遠のいのちを与えられる「しるし」として、本当によみがえらされたのです。
【6】道。真理。いのち。
イエス・キリストは、ここで、ご自身が「道」であり、「真理」であり、「いのち」であることを語られました。しかし、特に強調されているのは、ご自身が「道」であるということでます。なぜなら、その後に「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできませんん。」と続いているからです。どのような道であっても、道はすべてどこかへ行くためのものです。キリストが言われたこの道はどこに通じている道でしょうか。父のみもと、すなわち神に帰る道、天国に行く道であります。日本人は何事でも、曖昧に玉虫色で物事を解決しようとします。ですから、多くの人々は、救いに至る信仰についても「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」の歌を引き合いに出して、どの道から登っても結局同じ高嶺の月を見るように、真理は一つであってもそこに到達するには、いろいろな道(宗教)があるのだと、いい加減ななことを言うのです。
【7】まことのぶどうの木。
イエス・キリストは、ご自身を紹介する最後の七つ目のことばとして、「わたしはまことのぶどうの木である。」と語られました。この福音書で「まこと」ということばが使われる時は、ひな型に対する本体、未完成に対する完成、あるいは約束に対する成就という意味で使われています。ですから、ここでも「ぶどうの木」という比喩が示している実体(本体)はイエス・キリストご自身であることを示しています。ところで、「ぶどうの木」はぶどうの実を実らせるためにあります。そして、たくさんの熟した実が成ると一番喜ぶのは農夫です。イエス・キリストは、ご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木である」と言われ、父なる神様は農夫であると言われたのです。私たち人間を「ぶどうの木の枝」であると言われました。これは、非常に分かりやすい譬えです。枝がぶどうの木につながっていなければ決してぶどうを実らせることはないのです。それと同様に私たち人間は、キリストを信じて救われ、永遠のいのちを受け、キリストにつながっているならば神様のために豊に実を結ぶ幸福な人生を歩むことが出来るのです。
・・・・・hope to see you again・・・・・
!フリーター再生委員会?・・
● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」
☆「お問い合わせ」→・