ラ・ラ・ラ・メディテーション

2018/01/29(月)19:08

夜と霧の中でも・・ハートと意味の心理学 1.

チャクラとサトルボディ(26)

昨日グループの後の食事会で、Aさんが何のために生きているのか?と昔は悩んでいて、チャクラの瞑想を続けて、「生きたい」という欲求があることを発見した」とシェアした(大意・大体の意味。あらましの意味。) で「皆さんは、何故生きるのかと、悩みませんでしたか?」と聞いた。(これも大意) Bさんは、そんなふうに思うときもあるけれど、美味しいものを食べたり、幸せになったら、また生きていこうと思う」と言った(ような気がする) Cさんは、「苦しいことが連続してあった時、次の苦しいことを乗り越えるまで生きようと思った」と言ったような気がする(実は、カレー食べるのに忙しく、ちゃんと聞いてなかったのです) 今はすっかり元気で、瞑想会でもエクスティックに踊ってるAさんに、「何故何のために生きるのか?」つまり「生きる意味や目的」を探していたのか?と帰り道に聞いたら、子供の頃に喘息で呼吸するのも苦しかったから」と答えてくれて納得した。 生きるのが苦しいから、生きる目的や意味を求めるのだと思う。 例えば、ハートの愛の呼吸を感じて、ハートから愛を受け取ったり、与えたりしている時、この目的や意味はなんだろうかと考えはしない。愛それ自体に意味があり目的がある。 気づきが広がり、世界には愛が満ち溢れ、自然にみんな愛を受け取ったり、与えたりしてるのだ、ということに意識的になると、この世は地上天国だ。 うらみつらみこだわりしこりで、ハートの動脈硬化が起こっていて、錆びついていようが、それでも愛の受け渡しは日常的に起こってる。猫がにゃあと鳴き、僕は缶詰を開け、頭を撫でて、毛ざわりを受取り、窓からはお日様が照っている。昨日は珈琲を一緒に飲んで、会話を楽しみ、受け取り与え循環した。 で、僕はフランクルの意味の心理学について思う。 アウシュビッツ強制収容所で、肉体(第一チャクラ)は衰弱し、第二チャクラの回転は止まる。美味しい食べ物もないし、感覚的喜びも、人間関係もズタズタになる。もちろん第三チャクラの個人の尊厳は奪われ、完璧に無力な状態。 その時に、生き残った人びとは、人生に意味を見出したひとたちだ。だから生きねのに空しいひとは、生きる意味、目的を発見しましょう。あなたが意味を問うのでなく、あなたは人生から問われていると、強制収容所を生き残ったフランクルはそこでの観察からこう言った(これも大意 笑) しかし僕は思うのである。 もともとハート・チャクラが開いていたひとたち、第四身体(メンタル体)が強く機能していたひとたが生き残ったと言えないだろうか?と。 少なくとも第四身体の中心の空っぽなスピリチュアル・ハートにセンタリングしてなくても、第四身体(メンタル体・精神体)の発達したていた人たちが、生き残ったのではないか?と。 生きる意味にこだわり、それに自己同一化しだしたら、精神体が観念体になり、ハートの呼吸が浅くなり、第五チャクラも信念でいっぱいになり、クリエィティブでなくなってくる。 そんなことよりハートに呼吸して、ハートを思い出すことをすれば良いのでないかと思う。 意味なんか見つけようとしなくても、意義有るライフは出現している。たぶんアウシュビッツでも、というのは極論だろうか? 長くなりそうだから、この項つづく。

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る