2006/01/16(月)01:16
言ってやったぁ
今日は朝から階下の舅・姑のもとへ、義弟夫婦が通帳・給与明細・家計簿等を持ってきて色々話し合ってる。時折、姑の怒号が聞こえてくる。
そんな中、今日は旦那と娘と三人で、朝からスーパーや生産者直売場などを回って、野菜を買いに行ってきた。この寒さで、野菜の高騰、天井知らず、出きるだけ安く買いにいこうという理由つけて要するに家を出たかっただけ。
娘は、パパの車でお出かけでもう嬉しいばっかし。隣市の大型スーパーでも、パパ、ウンチするって言うと、旦那の手を引いてトイレへ。当面はトイレ見ると走り出す傾向が続くかも。
昼過ぎて帰ってきたが、階下ではまだやりあってた。姑がいっそ、同居をと申し出たそうだが、義弟夫婦は断乎拒否、なんと舅までが拒否したらしい、理由は、光熱費をどれだけ使い込まれるか判ったものじゃないから。義弟嫁は自由が無いからと言ったらしい。夕方まで、話し合ってたみたいだが、結局、何の進展も無いまま、帰っていったらしい。
我が家の夕食も済んで、娘も寝静まり、旦那も明日の朝は早いので、娘と一緒の時間に先に寝てしまい、明日のお弁当の下ごしらえをしていた所へ、姑が来た。
カボチャ煮たから・・と言って持ってきた。姑の煮るカボチャは、真っ黒に煮付けるため、娘は食べない、お口辛い、挙句に、おばあちゃんのカボチャは真っ黒、とまで言う始末。明日、いただきますから、と言って、追い返そうとしたが、姑は疲れ果てたと言わんばかりの様子で、リビングに座り込むと、陽菜子さん・・と話し始めた。
姑の父親は、戦死されてる、姑がまだお母さんのお腹にいる時に出征されてわが子の顔も見ずして亡くなられてるのだ。そういう点では、私の実家の母も、3歳で祖父(母の父)を戦死で亡くしてる。幼い子供、姑と姑のお兄さんの二人の子を抱えて姑の母は、籍こそいれなかったが、再婚してたらしい。そこに、父違いの弟が生まれて、姑は子供の頃から、家の中に居場所が無かったと話し続けた。中学出たら、鹿児島市内の大きなホテルに住み込みで働いて、そこに母親が給料日になるとお金をせびりに来る、弟の学費だのなんだのって取りに来る、その頃は異父弟の父親とも別れて、姑の母方の祖母と母親と異父弟で三人暮らしをされてたらしい。母親に泣かれるとイヤとは言えなかったんだよねぇとシミジミ話してた。しかし、そのホテルの社長が、このままでは良くないからと、同じ系列の他県にある別のホテルへ姑を移動させ、そこから、昼間の定時制高校へ通わせてくれたらしい。母親はキチガイみたいになって探しまくったらしいけど、なんとか高校卒業までは逃げ延びて、ちょっと気緩めて父親の墓参りに行って見つかって、またお金をせびられるようにって、その頃知り合ったのが、今の舅。事情話したら、勤務先に至急、実家へ戻れるように転勤願い出すからと言って、転勤させてもらい、姑は勤務先のホテルの社長にのみ話して、二人で手に手を取って、逃げてきた。いわば駆け落ち、舅が23歳で、姑が20歳。
最初、舅の会社の社宅にいたが、舅の父親が、借家をたくさん持ってた人で、そのうちの一つを安くで売ってくれるというので、最初は、1000円ずつ払って、ボーナスの時に5000円払ってというようにして、この家を買った、逃げてきた当初は、最初はガステーブルなんて無くて、舅のお兄さん宅から、七輪を一台もらってきて、山から木っ端を拾ってきて、煮炊きもした、本当に川や海に釣りに行って、食材にしたこともあったし、カースケ産む時は、実家には帰れないから病院や産院で産むといいよって舅の兄弟達から言われたけど、そのお金が無くて自宅出産で、助産師さんにお礼を3000円包むのがやっと。お産ってのは、出産費用より、その後がお金かかるから、仕事に出るにも保育園に預けたいけどお金なかったから、舅の兄嫁さんが預かってくれるって言うので頼んで仕事に出たものだった。
日本全体が、今よりもっともっと、貧乏だったから、出来たって言えばそこまでかも知れない。確かに、トースケは末っ子だったし、ちょっと年はなれて生まれた子で甘やかし過ぎた。いままで4回も縁談が壊れて、そのたびに相手に対して失礼なと思ってたけど、親はこんな苦労して頑張ってきたのに、どうしてあんなバカになったことやら・・・
「あのね、お義母さん、うちも大差ないと思いますよ。うちは子供四人いたんですよね、実家の母も戦争で父親亡くしてて、祖母は女性も自立せねば、の、豪傑ババでしたけど、父の兄弟は8人、その次男坊で、実家は地主ではあったけど、戦後、農地改革で大方取られて、幸い、山林があったから何とか持ちこたえたけど、その維持が大変だったみたいで、父方の祖母って人もそんな家を守らなければいけないってこれまた豪傑ババで祖父は生きてたけど、農地改革のショックで気弱になってたのを必死になって生き抜いてたんですよ、うちの祖父母は、結構どちらも子供達にはあまり優しい親じゃなかったみたいですよ。その分、うちの母は本当にたっぷりの愛情で育ててくれたと思うんです。父は仕事人間だったけど、それも当時のお父さんとしては当然のことだったと思うんです。そういう親を見て、私達兄弟、四人育ったんです。それぞれにそれぞれの生き方で生きてて、独身の姉も弟も経済的な面では自立してます。弟なんて、中学から私立に行く時に、公立との差額を後々支払いますって約束して進学して、大学卒業後、本当に支払ってましたからね。お義母さん、自分が苦しかったからって、それを子供に負いかぶせて、お金で愛情を買い与えてしまったんじゃないですか。なんでもお金で済むって自分で気づかない間にトースケ君にしてしまったんじゃないですか?余計なお世話でしょうけど、菜豚子も日に日に大きくなっていってるんです。こんな事をトースケ君夫婦に続けられて、正直言って、菜豚子にもいい影響は与えません。明子さん(義弟嫁)が居間のコタツで昼寝するぐらいの気持ちでいらっしゃるのであれば、お義母さんもそのつもりでご遠慮なさらずお金で援助ではなく、きちんと精神的なケアをなさるのが最良じゃないですか。私のいうことが、お気に召さない、腹立たしいとおっしゃるのであれば、私は、明日にでも、菜豚子連れて実家へ帰ります。冗談じゃありません。毎月、毎月、金がない、金がない、って実家へ無心に来て、その時ばかりの注意を受けて、借家の家賃も破格安になってるのも払わないで、私達夫婦は、この家の家賃を毎月払ってますよね、それも一円とて安くしてもらってません、でもかたや、安いのに払ってない。随分不公平な話ですものね。こちらに愚痴られても、はっきり言って迷惑です。なんでしたら、私達夫婦が出ますから、ここにトースケ君夫婦を住まわせたらいかがですか?」
「ちょっと待ってよ、そんな過激なこと言わないでちょうだい。あんなのと一緒に住んだら気が狂うわよ、今日だってお昼作りますって、野菜炒めとも麻婆豆腐ともつかない炒め物作るし、お汁ってお椀に卵落として、醤油落として、それにお湯入れて出すし、食後のお茶は湯飲みじゃなくて茶碗にいれるし、あんな怪獣みたいな嫁と一緒にいたら私は血圧上がって倒れるわ」
「やっぱりお義母さん、一緒に住んだがいい、そんな得たいの知れないお汁やら、お茶の飲み方する人は暮らして指導しなきゃ、無理ですよ。そうなったら、やっぱり菜豚子に変なこと教えられちゃ困るから私達出ます。」
ここで、寝てたはずの旦那が起きてきた
「あのさぁ、俺たち出るとなると、菜豚子の幼稚園を変えたりすると可哀想だから、親父とおふくろが暫く向こうで暮らせばいいんだよ、親父がいれば、毎日、伯父さんの家の牛の世話に行くんじゃないだろうから、トースケの嫁さんもパートにも出れるだろうし、家を留守にするからパートに出れないって言ってるらしいから、鍵もきちんと着いた家なんだろうけどなぁ。ま、とにかく、今夜は遅いから帰ってよ、菜豚子が起きるとまた寝ないから」
姑はスゴスゴと帰って行きました。旦那にいつから起きてた?って聞いたら、おふくろが切々と喋ってた頃から、昔から何度も聞かされたんだよ、って笑ってた。でも、思い切ってよく言ったね、出て行くときはカースケ君を忘れずにね、といわれました。
本気で引越し先探そう