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カテゴリ:プロ野球(メジャー)
稲尾和久氏の70歳の早すぎる死の知らせに、「鉄腕」の後継者は「うそやろ」とつぶやいた。「黒い霧事件」で球界を追放された元西鉄エースの池永正明さん(61)。マスターズリーグで31年ぶりのマウンドに上がったのも、球界への復権を果たしたのも、稲尾氏の尽力によるものだった。悲しみの13日夜も、池永さんは経営する福岡・中洲のスナックで客に水割りを作り続けた。 稲尾さんの死は、朝6時に取材の電話で知った。「ウソやろ! なんで、と思いました。最近までお店にもきてくれていたし、元気そうやったのに…」「大選手で最高の人やった。それだけ。俺らにできるのは泣くことぐらいたい」 池永さんが取材に応じてくれたのは、閉店間際だった。隣のカウンターにいた20年来の親友という男性客は「『稲尾さんには昔から本当にお世話になった』が口ぐせで、『俺の先生』『オヤジ』と呼んでいました。寂しいんでしょう。今はそっとしてやってもらえませんか」と話した。 池永さんが稲尾さんと初めて会ったのは、山口・下関商時代。西鉄入団を決めた池永さんに会うため、稲尾さんが学校を訪れてくれた。第一印象は「体が大きい人だなあ」。相手は「神様、仏様」と呼ばれた大投手。最初は緊張したが、次第に温厚な人柄にひかれていった。 「当時の西鉄には気性の荒い人も多かったですが、稲尾さんはいつもニコニコされていた。その点は晩年までずっと変わらんかったとですね」 池永さんは新人の1965年にいきなり20勝をあげ、「鉄腕の後継者」と期待された。だが69年の“黒い霧事件”に巻き込まれて70年に永久追放処分を受け、2年後に福岡・中洲でスナック「ドーベル」を開業した。 球界の仲間が次第に離れていく中、稲尾氏は福岡を訪れる度、必ずと言っていいほど店に顔を出してくれた。「もう一度池永をマウンドに立たせてやりたい」とマスターズリーグにも誘ってくれた。渋る池永さんに「黙って入らんか」と諭したのも稲尾氏だった。永久処分の解除を求める運動でも稲尾さんは先頭に立ち、05年4月、日本野球機構はようやく池永さんの処分解除と復権を認めた。 「すべて稲尾さんのおかげでした。私みたいな後輩を持って、稲尾さんには迷惑だったんじゃないかと思うほどです。15日の葬式には飛んでいって、顔をみたいです」 この夜、ドーベルには稲尾さんをしのび、元横浜の山下大輔氏や、元大相撲の舞の海秀平氏らが顔をみせた。だが、池永さんは昔話を持ち出さずに冗談ではぐらかし、かえって悲しみの深さがうかがえた。 その店も12月29日で閉店する。「選手生活は5年ちょっとで、お店はもう36年やっている。ここらが潮時では、と思いました」と池永さん。その日は地元のヤフードームで開かれるマスターズリーグの試合で登板予定だ。新しい門出を祝う好投を、稲尾さんが見守っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.11.14 17:55:34
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