『無為自然』
老子はこの世界を澄んだ目で見た。ありのままに見た。すると、あることがわかった。天下之至柔 馳騁天之至堅無有入無間 吾是以知無為之有益不言之教 無為之益 天下希及之あらゆるものの中で最もしなやかで柔らかなもの(水)が、最も堅いもの(石)を思いのまま突き抜け動かしていく。宇宙では柔らかなものが堅いものを動かしているということだ。かたいものは、どんなにがんばっても結局のところやわらかいものに屈服してしまうというのである。つまり、硬いものはやわらかいものに勝てないということだ。色んなところで、それは垣間見られる。男女の間もそうなっている。男の体はごつごつしてて、硬い。女の体はしなやかでやわらかい。男はどうしたって、女に勝てないってわけだ。そう、老子は思ってた。僕も賛成だ。歴史もそれを物語っている。俺が俺がと硬い男が表舞台に立って目立つが、それを表舞台に立たせたのはやわらかさであり、そこには常にしなやかな愛があった。固いものが放つ一方通行の欲情ではない。かたいものは自分が一番だと思っている。だから、どうだ参ったかといわせたくなる。だが、硬いものがやわらかさを屈服させようったって、最後には、固いものが屈服させられるのだ。この世界では、なぜかそうなっている。外も内も。物質も非物質も。かたいといつか屈服させられるのである。人の体にも同じことが言える。あらゆる頑なさが体を緊張で固くし、そしてそれは、内臓を固くする。かたさはいつかそのすべてをも崩れさせまいったと言わせるのである。やわらかさで満たしてあげないといけない。自我はかたく、満ち足りた思いはやわらかい。欲望に突き動かされ、行為し続け、執拗にそれを追い求める男女は体を固くしている。欲望が消え失せ、満ち足りたものが姿を現すとグッタリお互い柔らかくなっている。やわらかさが堅さを貫いた瞬間である。そこにとどまれば万事うまく自然に動き出す。なのに男はすぐに動き出す。あれこれ、気になりだし頭は行為しつづける。外側も内側もじっとしていられない。無為であれないのだ。その点、女は違う。無為に浸る。あらがわない。そして、「お水ちょうだい」と女は言う。男は硬いグラスを置いて、「急いでるから後は自分でやってくれ」なんて言ってせわしなく動く。無為自然じゃない。硬いグラスはいつか割れるだろう。こういうこともあるので、僕は行為しないことがいかに大事か知っている。だから、僕はすぐに動かない。ベッドに静かにしてて、「こんなことしてる場合じゃない」って言ってるやつも静かにさせる。そして、直感に従い「来週、パリに行くんだけど、時間とれるかな?」なんて言ってみる。そうすると、女はもっとやわらかくなる。そして、新たな世界がそこに幕開くというわけだ。めでたし、めでたし。※これはギャグなので、あまり真面目に受け取らないように。