詩人たちの島

2007/03/22(木)20:55

それでも やはり

essay(268)

「死者への関係が阻害されている―死者たちは忘れられミイラにされる―、それは今日、経験が病んでいることの徴候の一つである。人生とは一人の人間の歴史の統一に他ならないが、その人生という概念そのものが、ほとんど空しいものになってしまったと言えよう。一人一人の生は、かろうじてその反対物である死によって定義されるだけで、意識的な記憶の連なりや忘れようとしても忘れられない追憶の一致といったものは、すべて失われてしまった。つまり人生はその意味を失ったのだ。個々人は、点としての現在のたんなる羅列へと還元される。」(アドルノ・手記と草案) あらゆる経験がもっと深く病んでいるようだ。その帰結は、経験そのものが空無になり、その代わりに、形式化された対象への際限もない自己投影がすべてを塗りつぶすことになる。どこにでも気軽に自己を「携帯」できるので、相手の「自己」もそれに応接することでかろうじて「自己」であるような連関が偽のコミュニケーションを創造する。この指だけがさわれる文字列と顔文字の「経験」が、われわれの生と日常を深く合理化してくるので、そこからはずれたものは、「自己」を携帯できない「事故」として、アナクロニズムの闇のなかか、同じことだが、文明に反する野蛮のなかに閉じこもることしか許されないようにさせられる。そういう「空間」へはげしく疎外されるので、彼や彼女は「経験」を憎悪する。そのことは、つまり人生を憎悪することに他ならない。人生は意味を失ったのではなく、憎悪する対象として、蘇生する。しかし、どちらが理性的であるかといえば、この社会のマトリックスに寄生し規制されるものの多数であろう。「孤立」が「均一」となっているような社会に適応することは、野蛮人には不可能なことである。 それでもやはり、彼は対象との生き生きとした連関を夢見る。なにがおこるかわからない未知の経験にあこがれる。技術によって媒介されることが不可能な、何か。たとえば突然の追憶のよみがえりのなかで、そのありえない一致のなかで、きみに触れることを。

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る