詩人たちの島

2007/10/08(月)21:47

愛の謙虚さ

essay(268)

You don't know where I am.これは湯殿川の今年の秋の色です。陽射しの強かった土曜日の午後の散策で撮影したもの。 今日は24時間が天恵のように与えられました、「カラマーゾフ」の2巻目を読み終わり、イワンの大審問官のコントラとしての、ゾシマ長老のアリョーシャによる伝記の言葉、愛に満ちたそれを読みました。このポリフォニックな言葉の対比は、ドストエフスキーという天才をもってして、はじめて書かれたものにちがいありません。「告白」のきつさ、それを支える「愛」の最終的なゆるし、それゆえ、もしかしたら「愛」こそがもっとも過酷なものではないか、というようなことなどを思いました。ゾシマ長老の次の言葉が印象に残っています。 愛の謙虚さ―それは恐ろしい力、すべてのなかでいちばん恐ろしい力であり、それに類するものなど何ひとつとない。(中略)兄弟たちよ、愛は教師であるが、愛を手にいれるすべを学ばなくてはならない。なぜなら、愛はなかなか手に入らず、高い代価と長い期間にわたる長い労苦によってはじめてあがなわれるものだし、人は偶然出会ったものをつかのま愛するのではなく、永続的に愛さなくてはならないからだ。偶然出会ったものならだれにでも愛せるだろうし、悪人にでも愛せるだろう。若いわたしの兄は、小鳥たちにまで許しを求めた。その許しは一見、無意味なものに思えるかもしれないが、それこそはまさに真理なのだ。なぜならすべては大海のようなもので、つねに流れ、触れ合っているので、その一端に触れれば、世界の別の端でそれがこだまするからだ。 なんという言葉だろう! そして、この「聖人」を徹底的に侮蔑する死の「腐臭」から、また物語りは動き出すのである。まさしく、プロとコントラを、大海の波のように、押しよせ、帰るリズムで描ききるこの大作は「人生」よりもリアルな「人生」なのかもしれません。しかも、そこに作者の姿はゼロなのですから、もっともラディカルな小説であるとも言わざるをえません。突飛な連想ですが、『源氏物語』などと比べてみたいと思うほどです。 語るということの「すさまじさ」があるのです。語るにたる「生」のすさまじさがあるのです。二つにともに。というのが、とば口の思い。 ものいわぬ秋の景色も、造物主、造化の愛のなせる業であるのでしょうか。

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