★もしも、字が小さすぎてバンザイ!の方いらっしゃいましたら:◆(Ctrl)+(+)=文字サイズ拡大。
繰り返すといくらでも大きくなります。◆元のサイズに戻すには(Ctrl)+(-)をお好みサイズまで反復 |
本表は縦に長~い為、入り組んだ人間ネット比較しながら考える場合、 NEXT頁の『■その時、誰はどこに居た?何を思った?誰に合った?接点模索,■みんなの行動考察表』
と照合考察する場合、ウィンドウを2つ立てて、並べて表示をおすすめします。
|
『赤い靴』考察_No.1(現在頁)<No.2 |
* | 人名、続柄
・生没他 | MEMO | *補足MEMO | * |
■注:西暦と和暦:月と日を現代の季節感上、いちいち頭で変換しなくてもよくなる切り分けは、
明治5年12月2日(1872/12/31)。この年は調整の為、その翌日の12月3日を明治6年(1873年)1月1日に改 |
0 | 野口雨情
作詞 明治15(1882)年 5/29~昭和20(1945) 1/27日:詩人 | 鈴木志郎が札幌の「北鳴新報(=新聞社)」記者時代、同僚。
有名なこの詩を作詞。貧乏暮らし。野口も明治41年、長女を生後僅か7日で 亡くした。子を思う親の気持は、言うなれば己自身の心。生きていて欲しい、 きっと生きている、そう願う気持は人事でない。せめて、同僚の鈴木の子
だけは、なんとか生きて欲しいが・・。尚、この後、小樽で石川啄木 も同僚。札幌時代、既に野口と石川は函館で面識有。故に全員(下枠鈴 木を含む)札幌で繋がり発生。この後皆小樽へ。揃って行って揃って屈。 |
|
1 |
岩崎きみ:本人 明治35(1902)年7/15~ 44(1911)/9/15、 | 悲劇の主人公=赤い靴の女の子=きみちゃん。私生児。結核で病弱。
生まれ:静岡県旧不二見村(現在:清水区宮加三) 戸籍書面上、明治37年9月19日付:佐野安吉の養子。これは、ヒュエット 夫妻に養子手続きを組む前提作業。そしてヒュエット夫妻の養女となるが、
各国移動の多いヒュエット夫妻。鳥居坂教会の孤児院(東京都):メソ ジスト系に預けられ、ここで死亡。満9歳墓:鳥居坂教会墓地(青山霊園) |
▼きみちゃん自身にとっては、自分の母が結婚した相手。実父を見たことなし、新父も知らない。
「かよ」は離婚暦無し。完全に私生児として産んだ。下記(※)には混乱防止の為に、あえて再婚と記。 |
2 |
岩崎かよ:きみの母 明17(1884)1/13~ 昭和23(1948) | きみちゃんの母。明治36年:子を連れ来函。(定説)
しかし、別の考え方も。37年に東京の施設へひとまず。その段階で、 後にヒュエット夫妻の子として札幌での再会を希して単身来函等も
想定範囲。鈴木志郎との結婚は、きみちゃんを産んだ後であり、子連 れ結婚。実質きみちゃんが側に居る居ないは別として、子有人としての結婚。 |
昭和の世、鈴木志郎との間、後に生まれた子「岡その」の証言で母が語った内容。姉が居ること
はずっと母に聞かされきた。しかし、父が異なる事は知らなかった。母は天涯、本当に 「外人さんと一緒に外国へ行った。」そう思い込んでいた。「岡その」の語った当該神父
の名前が、発音的にヒュエットに極似ていたことと、確かに札幌には当時在住。 なれば許容範囲。また函館にも多少軌跡有人物。
ヒュエットは岩崎かよが農場開発に向ったブレーンと、厳密には異なる宗派ですが、後述の 『篠崎清次』達の強力ネット網でやはり繋がっています。- ※お寺でないから、宗派と書くのも変ですが、とりあえず、以下時折宗派という表現で
記。教派と書くと誤意になりそう。ところがこの頃統合化前後。尚更、適切表現解らず。 宗派と書かれて不愉快な皆様いらっしゃいましたら、お許しください。誤意にならぬ ために、あえて架空的造語表現の一種として「宗派」と記します。
|
3
鈴
木
志
郎
| 鈴木志郎
義父 明治13(1880)~ 昭和28(1953)11/23 | 上記「かよ」がきみちゃんを産んだ後の再婚(※)相手。青森県西津軽 郡鯵ヶ沢出身。農場の夢に屈した後、 妻のかよを連れ、札幌の「北鳴新
聞社」、小樽の「小樽日報社」勤務時期有。 (新聞社と同僚については、下枠に追記有) 志郎は、青森のキリスト者として函館に来たのか、それとも、社会主義 者なのか?労働者として函館に来たのか、定かな資料、不思議と今だ
判然としない。青森のキリスト者関連人と考えられるが、確証得られず。 ご子孫はいらっしゃいますが、それらについて公開の情報を存じません。 詳細は下段及び、『b_ドレーパー宣教師』枠=鈴木志郎のルート考察 |
■新聞社についての追記 札幌には「北鳴新聞社」と「北門新聞社」別途有。 この頃、「北鳴新聞社」には、野口雨情、鈴木志郎。「北門新聞社」には啄木。 時代柄、思想言動が制約されている。不戦、平和、平民主義などはタブー。雨情と啄木は、
函館時代既にコンダクト有。3人共絶望&不満で去り、小樽の『小樽日報』入社。- 道内啄木在籍歴有の新聞社:「函館日日新聞」、札幌『北門新報』、『小樽日報』他。
- 道内野口雨情在籍歴有の新聞社:「北鳴新聞社」他、啄木同様転々。
- しかし、ここでも3人共結局短期にして去る。失意の三人、皆それぞれの道を。
■鈴木志郎が洗礼を受けたのは、ずっと後大正3年であり、倶知安の教会。 但し、この頃宗派の統合や名称変更などがあったことから、かつて昔二人共、別のところで 洗礼を受けた人物ながら、改宗後の再洗礼とも考えられるが・・・。
鈴木志郎が幼少の際、ドレーパー宣教師は青森に居る。父や兄等家系に誰か関与があれば教会無縁とは
断定できない。もうひとつ、青森に於けるドレーパー宣教師の宗派関与は、東奥義塾と弘前教会。 ドレーパー宣教師本人は、志郎が学生年齢の際もう青森に居ないが、親族が上記2つの組織何れかに
縁があった場合、成長した志郎が、キリスト教そのものに直接関与する否はべつとして、塾生(当時は 学生でなく塾生と呼ばれた。)の一人として、そこに存在するケースも考えられるが、発掘できず。
■樺太説について:野口雨情には樺太周遊時期有。
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Y_岩崎かよと鈴木志郎の軌跡 |
(総)夫婦は苦労の果て、明治40年農場閉鎖。開拓は夢に屈する。 志郎は家族(きみちゃん除く。新しく生まれた子と妻)
と共に札幌で暫し記者として働く。小樽、倶知安を経て、最終再び小樽。そして眠る。 (経緯)▼ 明治36年:子を連れ、かよ来箱。 明治37年9月19日付:既に結ばれた二人は、子=きみちゃんを戸籍書面上、かよの義理父の
佐野安吉の子扱いとして体裁を整えた上、正式にヒュエット夫妻の養女となす。 明治38年~40年:平民社農場開設から閉鎖の40年まで開拓に勤しむ。
_明治38年時、かよ=21歳。志郎は、25歳(異説有:志郎が年下説) 明治40年~:農場閉鎖後 鈴木志郎は、『北鳴新聞社』『小樽日報』に在籍有。この2箇所で野口雨情、と石川啄木接点有。
野口雨情、と石川啄木と時期同様にして会社を去る。 倶知安で働く。地理的に、かつての夢破れた農場の留寿都からも、そう遠くない。 大正3年(1914):倶知安教会(カトリック)で洗礼。昭和15年(1940)小樽移住、夫婦共に小樽永眠。 |
続柄は主人公の少女=きみちゃんから見た続柄関係 |
4 | 岡その ・異父妹 | 鈴木志郎とかよの三女(小樽生れ)1973年(昭和48)、新聞に投書。
「私の姉は『赤い靴の女の子』本人です」証言。 赤い靴ブームはここに再燃焼。 |
5
佐
野
安
吉
| 佐野安吉
義理祖父、兼 戸籍上の父 嘉永3(1850)年生~?
| 岩崎かよの母は離婚。その再婚相手が佐野安吉。 岩崎かよは、病弱な子を農場開発に連れてゆく事が不可能。宣教師に養女
引取依頼。きみちゃんを私生児として産んでいる為、子のきみちゃんを、 下記のヒュエット夫妻に養子手続きを組む際、父無しはまずかった。 そこで、まずは、かよの義理父である佐野安吉が、書面上、父と為して
前提を整えてから実施された。(前提とは?それについての考察)
■子引渡しについては、実際動いたのは父側のライン強。
|
■子引渡しについてさらに、本当に一回函館に連れてきていたか否か詳細不明。
在函中に、ヒュエット夫妻にかよが引き渡したか否か。確かに下記に延々続く文章のとおり、 函館は児童福祉先進の地だが。当該らしき発掘得られず。後に札幌で元気な姿を 見れるかもしれない一縷の望みに、ヒュエット夫妻の子として引き取られる予定でひとまず東京か。
それとも、ヒュエットが一度引き取り後、急仕事都合で、泣く泣く暫し東京へか? 暫しのつもりが、病状悪化&多忙、帰国の兆し=不可!か。このあたりが 『赤い靴の女の子』ブームの各派、多説の的。
- 佐野安吉、この人物について、説は多々ながら、
- 私的見解では、敬謙なるキリスト者に見えて仕方ない。
ならず者どころか、実は、キリスト者との接点があったのではないかと 考えている。かよ本人も。
安吉とキリスト教の接点について 下欄のドレーパー宣教師本人との接点も、静岡在住中に発生した可能性有。
同宣教師は、明治31年段階から、横浜に住居を構え、東海関東地区を伝道している。
その場合、かよが函館を目指した理由も頷ける。この義親子は社会主義者か、 キリスト者か何れか絡みがあった可能性有。
- 昔の事象につきプライバシー問題はないのですが、我々一般が、一般洗礼者一覧や、関連
リストは発掘できません。この人物は恐らく、今さら名誉挽回要らないよ!私の事は 別に大丈夫。孫を救いたかっただけだよ。と草葉の陰で言ってそうな気しますが、 ▼学識高い人物の臭いも漂う。
尚、同宣教師は、これが初布教ではなく、明治21年の布教旅の際も、静岡立ち寄るも 可能なルートを描いて行動している。しかしながら、どう考えても、佐野安吉は義娘の かよを函館に送り出す以前に、既にドレーパー宣教師、もしくは別の関連宣教師との接触
があったと思える要素が強い。(次頁の「みんなの行動表」部分ご参照)
佐野安吉について:私的な拘りから掘ってゆくうちに、やっと少しづつ見えてきています。
敬謙なるキリスト者を実証できる材にはまだ辿り付きませんが、「尊い志と学識高い」を 漂わすライン迄には、漕ぎ着けました。教会さん内部の古資料、偉人でなく一般民に係る
情報は・・・私は俗世の者につき掘れず、まだまだ時間かかりそうですが。
また、1871年(明治4年):日本は禁教下)に初に宣教師が送り込まれ、静岡を中心に
伝道していた派は、カナダ・メソヂ(ジ)スト監督教会。但し、この後、各派は統合化されてゆく。
■1871(明治4)年来日の宣教師:(E.W.クラーク):静岡学問所で洋学教授。 この段階で日本は完全に禁教。されど彼は招かれて来た以上強気で堂々布教。
私を怒らせるならば、指導も不要という意味だな!(日本側としては、惚ける見逃す しかなかった。技術の導入、知識の泉を逃すわけにはいかない。) ■1873(明治6) 年:上記クラークは静岡を去る。
■1874(明治7)年に、同宗派のカナダメソヂスト教会から来日の上、静岡伝道に貢献したのは、 D.マクドナルド宣教師同年。9月27日、11名が受洗礼。禁教が明治6年に解けている為、
教会も創立された。ここに、仮に間接的にでも接点があれば、この頃、佐野安吉は24歳、就学適齢。 ・・・(上記、宗派という文字、んっ!カチン!の場合はこちら)
1868年の維新敗北に於ける徳川家臣団負け人、賊軍、集団移住。爪に燈を灯してでも、 師匠の弟子のそのまた弟子・・だろうがなんだろうが、必死で勉学に勤しんだ話多々ある。 (脱線長くなるので、略。後日別SERIESにて)
|
X_岩崎かよが何故函館を目指したか? |
幾つか考察_児童福祉充実の街、函館 |
X
岩 崎 か よ が
何 故
函
館
を
目
指
し
た
か ?
| 考え1 (真上枠ご参照):ドレーパー宣教師と静岡在住の内に接点を得た。同宣教師は、視力障害や
聾唖などの子の教育に宣教師の母子(母=C・Pドレーパー)共に強い。 同宣教師の母は函館在住。(ぐっと下:篠崎氏枠、及びドレーパー枠ご参照)
以下、考え方2と、考え方3について:病弱な子を抱え、収益を得たくとも働くに働けない。
身動きできぬ未婚の母が、もしこの情報を得ていたとしたら! 考え2 上記ドレーパー宣教師と全く異なる別の宗派で、別角度から考察- 函館は、当時の日本の中、孤児救済の施設登場が極めて早い土地。
函館の孤児院の発祥は明治11(1878)年5月28日。極めて早い。
- 函館の実態を見たオズーフ司教がシャルトル聖パウロ修道女会修道女の派遣を依頼。
そこで、明治11年、3人のスール(修道女)が派遣されてきた。孤児施設の他、
婦人達に洋裁等、実生活に役立つ事を教えたり、サークル的親睦活動など幅広く活躍。 - この施設は当初湯の川。ところが、明治30年に渡島当別のトラピストに移動した。
病弱な子を抱え身動きできない未婚の母が、もしこの情報を得たとしたら、決断に踏み込むも さほど不自然ではない・・・との考え方。因みに、かよが函館に登場するは36年が定説(別説有)
30年代初期にこのNEWSと行動時期について、確かに近いことから、考察としてここに記します。
- 考え3_児童福祉発想がいち早かった町=函館に目を向けた・・・と考えたケース
- (国内明治の孤児院に係るMEMO)
■国内では、大分県に明治2年これが断トツに早いが、一般に知られるのは明治20年 の岡山。何れも公ではない。キリスト教に携わった人物、もしくは教会が主体で、 『公の施設』としては、この時代まだ設立されなかった。
江戸時代から寺などが善意で努めた例はあるが、誰しも期待どおりにならぬからこそ、 そこら中、当時の言葉、捨て子、浮浪児。
驚くが、国内法的に確定したのは、昭和4年。それまでの間キリスト教会などが各地で。
細かく言えば、施設実数は全国思いのほか有る!ところが、当時の人々は キリスト教という名の「垣根」そう簡単に飛び越せなかった。周囲の目。まさに
高いハードル。藁をも掴む状態。されど「垣根」は越せない。 ■また、函館は、別途、明治4年、「育児会社」が開設された経緯もある街。
■明治16年、桜井ちか、及び武藤八千によって、仮設幼稚園開園。就学前の子供収容目的
・・教育もあるが、母が働ける。 ★但し、現代と異なり、新聞になんでもかんでも情報が提示されるわけではありません。
一般の女性が、こうした情報を事前キャッチできるとしたら、余程裕福で余裕があり 勉学専念できる身で無い限り、情報源は、かなりの確率でキリスト教会との結び付
考え4_士族の志
私的には、かよと志郎の縁談は函館で降って沸いたでなく、義理父
佐野安吉が、後述『篠崎計画=平民社農場への夢』を事前にキャッチ。尊い志を持つ若者の 妻に、送り出したのではないか・・という考え方が、ウェイト的に非常に高いです。
No.2も是非ご覧下さい。(▲いきなりなのでピンと来ないと思いますので)
|
続柄は主人公の少女=きみちゃんから見た続柄関係 |
■0_野口雨情,■1_岩崎きみ,■2_岩崎かよ,■3_鈴木志郎,■Y_岩崎かよと鈴木志郎の軌跡,
■4_岡その,■5_佐野安吉,(左記人物は現在頁もっと上側群) |
6 |
岩崎辰蔵:叔父 きみの母(=岩崎 かよ)の実弟 | 農場開発に勤しむ岩崎かよ夫妻。弟を呼び寄せた。共に汗、共にやがて
喜びを・・と。しかし、現実は、過酷な労働、自然環境の中、彼はこの地、 平民社農場で死に至る。(辰蔵の墓調べられなかったです。▲定説による。 |
7
ヒ ュ エ ッ ト 夫妻
| チャールス・
ヒュエット夫妻 (1864~1935) (養父母と される人物) アメリカ人宣教師 明治30年(1897)来日。 日本美似教会札幌教会 道内行動軌跡: 函館,札幌,旭川 国内行動軌跡:
仙台,東京他
| 表記:C.W.ヒュエット、ヒューエット、ヒューイット他 関与:◇仙台五橋教会,◇東京英和学校(青山学院前身
詩に登場する「異人さん」とは彼を指すが定説。反論もあるようだが、まずは。 きみちゃんを養子に迎えるも、この子は病弱。アメリカ に戻る際、もしくはもっと早期(この人物は就学及び転勤の為、帰国以前の
段階、他各国移動多い▼)に、きみちゃんを東京の孤児院へ。預かって早々 転勤の宿命か?移動軌跡:明治38年(1905)欧州へ。米国デンヴァー大学修士 課程を経て39年再来日。函館,札幌軌跡はあるが、39年再来日の後は、
旭川に力が入っているようだが、なんともいえない。 旭川の教会のオルガンは海外で彼が購入してきた。
41(1908)年米国へ帰国。きみちゃん死亡は44年。 |
8 | 本多庸一 1849/1/7
(嘉永1/12/13)~ 1912(明治45/3/26)
| 本人が、函館に来た来ないは別として結びつきのキーマン。
津軽出身の本多庸一も、上枠、チャールス・ヒュエット夫妻と同様、 関与は仙台五橋教会,東京英和学校等であり、また本多氏は
改宗&各派統合に尽力している。ドレーパー宣教師枠をご参照下さると 解りますが、ドレーパー宣教師に縁深い東奥義塾及び、弘前教会にも パイプライン明確。よって、ヒュエット宣教師もネット網内。 |
9
篠
崎
清
次 | 篠崎清次
キーマン 函館平民新聞読者会top 平民社農場設立の主要格 1881(明治14)~ 1917(大正6) ▲函館訓盲会会長 函館訓盲院長 明治14年愛知県生まれ | ■この人物は函館の敬謙なキリスト者。 ■鈴木志郎と岩崎かよが結ばれて 平民社農場に繰り出す際のキーマン。自宅は函館の相生町。北海道盲唖教育 の先覚者。彼自身幼少より強度近眼=ハンディの身。医師を志すもこの眼では
不可と悟る。明治30年2月来函。当時、函館青柳町には視力障害者の教育目的 の訓盲会が有。明治28年、米国のドレーパー宣教師及びその母、シャーロ ッテ・ピンクニー・ドレーパー、及びが設立。篠崎は函館に嫁いでいた姉を頼り、 生徒となりキリスト教に入信。そこから発して明治31年卒業。訓盲会の教師。 明治37年訓盲院(明治34より改称)の院長就任。さらに唖生部を設け、唖生の 教育も。これは頼まれて同情が発端。断れないが唖生教育は素人。そこで自ら
翌36年東京盲唖学校で半年間聾唖教育を学んだ。尊敬してやまぬ上記女史 は、不幸にして僅かその二年後天昇の時。篠崎は悲しみを力に換え全力投球。 |
他にも、考察に加えたい■補足、■人物、■組織、■キーワード |
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★篠崎清次ネットワークの力★
■ギデオン・フランク・ドレッパー宣教師、■「青森の東奥義塾」、■日本基督教団函館教会と全国の関連教会の力 |
| ■篠崎清次ネットワークの力
平民新聞とは?=下枠「幸徳秋水」枠ご参照 ■平民新聞は弾圧されて、度々発禁処分の上、つに38年1月廃刊。その為、彼の組織「函館平民新聞読
者会」も危険察知。同年2月3日「函館平民倶楽部」と改称。機関誌「新福音」を発行することによって 活動を継続。 ■彼の人間ネット網は膨大。中には、は、富山の薬行商人として道内を行商回遊、実は社会主義者と
連絡を取る者も居た。正満又七((明治14)1881~1962(昭和37))がその一人。
■平民社農場の株は東京、横浜、横須賀、富士南、函館、小樽の同志。 ネットは道内ならず関東に及ぶ。
_その為、チャールス・ヒュエット夫妻は函館ではなく、札幌だがコンダクト有。
■高林庸吉((明治2)1869~1948(昭和23))も篠崎の友人の一人。 _高林とは、明治24年、理想郷同志社系インマヌエル村を開設した者の1人
■篠崎本人も、明治36年東京盲唖学校で半年間聾唖教育を学んだ際、東京近郊等は活動範囲。 ■篠崎が入信した原因は函館の上記シャーロッテ・ピンクニー・ドレーパー(ドレッパーとも表記)。 しかし、その息子、ギデオン・フランク・ドレッパー宣教師の行動範囲は実に広い。
(ギデオン・フランク・ドレッパー宣教師のバックアップは下枠) |
■青森の東奥義塾及び、弘前教会との繋がり
- G・F・ドレーパーが、青森の東奥義塾に英語教師として赴任する以前に、現に当該校からは、
宣教師として来函物の実績有。繋がりラインはかなり太い。(下枠参照:脇山義保) 青森出身の鈴木志郎のルートは、ここに生じているのではないかと考える。
東奥義塾か、弘前教会に、鈴木志郎のヒントがありそうながら、あいにく、この頃、 反戦論,社会主義,キリスト教の三点は憲兵の目が光る頃。明治6年禁教廃止となった数年後 よりも皆警戒。社会主義はタブーの空気、本人達の安全の為か、名は抹消されていたりで茫漠。
東奥義塾高等学校 青森県弘前市大字石川字長者森:キリスト教(プロテスタント)系私立高等学校。 明治5年11月27日設立からスタート。途中経過変化有。詳しくは検索容易に付略。 |
b
ド
レ
ー
パ
ー
宣
教
師
| ドレーパー宣教師,東奥義塾(青森)との太いパイプライン,鈴木志郎のレイアウト模索 |
ドレーパー宣教師
ギデオン・フランク・ ドレッパー宣教師 =G・F・ドレーパー) (1858/7/20日~1951/1/24)
■メソジスト派: アメリカ人宣教師 ■日本基督教団函館教会
■母子共、日本の盲人教育 重要人物 ▲篠崎清次と懇意
| キーマン: ■東京の孤児院ルートは、ドレーパー宣教師本人だろうと考えられる。
■鈴木志郎のルートも、ドレーパー宣教師の行動軌跡の影響多大 ■1880年(明治13):来日。 ■1881年(明治14):本人は下記のとおり軌跡を歩むが、本人より早く 両親はこの年1880年、函館到着。(
(軌跡) ■1884年(明治17)に、東奥義塾(青森)に英語教師として赴任。 ■1885年(明治18)より、本多庸一牧師の下で弘前教会の宣教師を兼任。 ■1887年6月2日(明治20年)、当氏も洗礼式を執行した様子。
同学校でこれよりもひとまわり早い時期に、他宣教師から洗礼を 受けた生徒の内、函館に伝道に来ていた者:脇山義保も居る。 これらは、もとより青森の教会組織と函館の連絡網の強さを
示唆する。 ■1888年(明治21)横浜に住んで、京浜、東海地区を伝道する。
■1889年(明治22)横浜南区中村に盲人福音会を設立する。 後の横浜訓盲学校で。 【1888(明治21)年以降、横浜教区長老司(教区長)として横浜 に居住】
■ドレーパー宣教師の母親の力も強く影響▼ |
C・Pドレーパー 函館在住 ドレーパー宣教師の母 | 表記:シャーロッテ・ピンクニー・ドレーパー (=シャーロット・イニッド・ドレッパー シャロッテ・ピクニィ・ ドレイバー =)1899(明治32)3月、函館の地に命を。 享年67歳。(墓は別地) |
■1892年(明治25)函館で伝道する。
■1893年(明治26)信州で伝道する。 ■1895年(明治28)函館訓盲会を設立する。 ■1898年(明治31)に横浜に帰り、東海関東地区を伝道する。 (1898~1929:明治、大正、昭和:永く在日▼)
■1898(明治31)~1929(昭和4)迄:小川教会の主任牧師を務める。 ■1939年(昭和14):米国との関係悪化故帰国。 ■1951(昭和26)年1月24日に米国で死去。
鈴木志郎は、それらの縁によるキリスト者ではなかろうか。
| ■父親は:ミラ・E・ ドレーパー博士 ■娘は:娘1:ドレーパ ー・アルメリン・スミ ス 他1.早世一人。 ■妻は:マイラ・ヘイ
ヴン・ドレーパー :「 母の日」を日本の暦に 定着させた 人物 |
c | 脇山義保 ・について補足
| この人物は時期的に一回り早期なので、本件に直接関与 はないが参考までに 1879年の函館巡回地区担当者の中に脇山の名有。彼は遠野士族家系。
1880(明治13)年には函館教会の牧師を拝命。その後、彼は渡米して 神学校に留学。一方,その妻「つや」は、その間明治18年(1885)に 婦人伝道師となるために横浜の聖経女学校に入学。
(妻も夫と同時に洗礼を受けた者)卒業後、帰国した義保と共に 宇都宮で伝道従事。義保は明治24年(1891)死亡。 |
d
日本 基督 教団 函館 教会 ME MO
| 日本基督教団函館教会MEMO
■起源: 1874年(明治7)1月26日、アメリカメソジスト監督教会のM・C・ハリス宣教師の伝道。
これが、「函館美以教会」の起源。 ■当時の世情: キリシタン禁令廃止は、明治6年。とはいえ、幕末以来の攘夷派風はまだやまぬ。 それどころか、期待した「明治維新」たるや皆の思惑と大幅に異なり、さらに下級武士の反乱が連発。
庶民の一揆も全国で勃発。特に、函館は外国人殺害事件発生の地。(幕末は全国多発ですが 維新完了後のこの事件は、かなり衝撃的ダメージを)
明治7年2月発生:ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件
- ▲この事件:いけないことですが、犯人は急旋回の維新メカニズムに即応できなかった
という点、やや同情。犯人はかなり勉学熱心だった様子。攘夷風はついこの間迄吹いて いた。明治の偉人達の多く、この直前にあった慶応,元治,文久,万延,安政・・・、 領事館を襲撃したりして、暗殺という結論だけ取って言うなれば、似たような事を やっています。
■その後: ◇1877年(明治10):菊池卓平が初代牧師就任 ◇1907年(明治40):日本メソジスト教会結成。そこで「日本メソジスト函館教会」と改称
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■重要関連キーワード
■その時、誰はどこに居た?何を思った?誰に会った?接点模索 ▼ |
■重要キーワード、■みんなの行動考察表 |