家茂と和宮お約束の京錦,棺と砂糖菓子_誰よりも愛した我君家茂と和宮,空蝉の袈裟と純愛,14代徳川将軍家茂と和宮No.3,屍が持ち帰ったお約束の京錦,幕末戊辰
棺と砂糖菓子_誰よりも愛した我君家茂と和宮,空蝉の袈裟と純愛,14代徳川将軍家茂と和宮No.3,徳川家茂と和宮について,世の背景,一橋派と南紀派の延々怨恨バトル,家定のなぜか宣言と黒幕,大老暗殺、桜田門外の変,水戸と長州,幕末戊辰棺と、砂糖菓子:誰よりも愛した我君_No.314代徳川将軍「家茂」と和宮:約束の京錦時代背景とか歴史抜きで、心系直行=No.4なぜ、和宮が、ふと本気で「家茂」を愛してしまったか?について◆なるほど優しい訳:動物大好き少年「幼少時の慶福こと、後の家茂」後半に、少し「和宮に係るミステリー」について。及び、関連本。遺骨が物語る謎。【和宮の手首と足】、解けて消えた写真。京都時代の或人物による証言他。二人の甘い暮らしとは?「棺と、砂糖菓子」二人の甘い暮らし登場のお品!を現代の商品から、一部ご案内。【現在頁はお硬い系徳川家茂と和宮_略MEMO初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2文久2年(1862):徳川家茂(16歳)&和宮(16歳)結婚:(公武合体)<徳川家茂(慶福)>:弘化3年閏5月24日(1846)~ 慶応2年7月20日(1866):享年21(満20歳没)。徳川斉順【←ナリユキ】(紀州藩11代藩主)の次男(長男早世の為長男とも扱い言われる事もある)。江戸の紀州藩上屋敷生まれ。 出生の16日前に父の斉順病没死亡。紀州藩=紀伊藩=版籍奉還後は「和歌山藩」◇弘化4年(1847):1歳: 徳川斉彊【←ナリカツ】(紀州藩12代藩主)の養子となる。◇嘉永2年(1849):4歳:紀州藩13代藩主となる。(斉彊死亡の為)◇嘉永4年(1851):5歳: 元服。慶福と名乗る。(それ以前の幼名は「菊千代」【事象群A】:世継に係るイヤな背景事象(南紀派対、一橋派の延々バトル)◆第13代将軍「家定」が異例の行動。この人物については、下側にバナー有り。・◇安政5年6月25日(1858):諸大名招集。次代将軍を「慶福(=家茂)」に指定と明言。・◇同年7月5日(〃):一橋派諸大名処分を発表。<この将軍はハンディ有り。独断で一橋派排斥決断は不可能。BACKの黒幕。>◆安政5年7月6日(1858):家茂12歳:第13代将軍「家定(35歳)」死亡。・・・自分の後釜指名をさせられた後、なぜか?丁度、冥土入り!▼イヤな背景を背負って、慶福(=家茂)が第14代将軍に就任へ。▼◇安政5年(1858)10月25日:13歳: 第14代将軍に就任。名を家茂に改。 (井伊直弼ら南紀派の支持)◇▼【事象群A】に対する一橋派の復讐万延元年 (1860) 3月3日 桜田門外の変。南紀派の大老井伊直弼、一橋派の水戸と薩摩の有村他に暗殺される。この時の様子関連:桜田門外の変と有村次左衛門の最期)(ご参考迄にこの後の時代まだまだ尾を引く怨念:水戸と長州が水面下で結託)藤田小四郎←このリンク先から前後数ページご覧頂いたほうが解ると思います。現在頁下側に芹沢鴨バナー有り。水戸と長州のややっこしい絡みが解ります。◇文久2年(1862):16歳:和宮と結婚(公武合体)。◇【一回目の上洛】文久3年(1863)3月:17歳:上洛(将軍上洛は徳川の歴史上229年ぶりの稀事象。孝明天皇に攘夷を誓う宿命を享受。)◇【二回目の上洛】文久4年(1864) 1月15日 :18歳:従一位に昇叙。右大臣に転任。その為に上洛。(※この年は途中で元治元年)◆文久4年(1864) 8月2日 :18歳:第1次長州征伐が始まる。 ▼【三回目の上洛=天昇迄】◇慶応元年(1865)閏5月22日:19歳:第2次長州征伐。上洛。 ◇慶応元年(1865):19歳:謎の逃避行事件を起こす。▼「次回将軍は是非慶喜殿に」天皇に手紙。江戸へ引上げるか?の行動を起こしたが、慶喜に連れ戻される。驚いた天皇は、以降、幕府内政に係る人事部門に干渉せぬと、かなり狼狽。天皇は、若い義弟の「家茂」の性格を知るなり、立場利害を超えて、内心弟のごとく可愛いがっていたといわれる。この事件は、兵庫開港問題に責任を感じたと推定される事が多い。実際処分を食らったのは、家茂本人ではなく、関与した役人達ながら、こればかりは無関係とはいえない。本人も積極的に動いた暁だった。処分されたのは、老中・阿部正外の他、松前崇広(松前12代藩主)ら。朝廷によって処罰された。今回の一件に関しては家茂も、なんとかしようと、自分が動いた過去がある。洋学ツーの松前崇広とは、真夜中にマンツーマン密談。皆が居ると煩いのと、なんでも遅い!から。いちいち何事も悪い幕府のお家芸!遅い!若いから速攻に出た。松前崇広は即!謹慎、国許追放処分。そこで家茂は、自ら、将軍職を降りる決断だったのだろう。◆家茂は歴代の将軍の中でも、特に良い子の優等生将軍。しかし、後見職付きの将軍のあるべき姿の模範生の形態を保持せねばならぬ立場。後見職は慶喜。家茂は若いのに、即決即断の将軍と言われるが、基本的には、わきまえており、大義に係る事柄にそれをやらない。人に迷惑のかからぬ範囲。わがままといえば、自分の周囲に置く者を独断で、ほんの数人ピックアップした程度。ここに、それに係る少々微笑ましいやら可笑しいやらの話(蘭医の松本良順と、剣客:榊原健吉◆その枠をはみ出した大胆な行動とは、上記松前崇広との密談、及び、神戸海軍操練所の創設許可を慶喜に相談せず、即、勝海舟にOKした事等。この学校はご存知の坂本龍馬達が学ぶ。1864年(元治1年)5月開校はいいが、案の定、結果としては、まるで倒幕派養成所になってしまった。幕府の財布を傷めて、生み出したるは倒幕派パレード。これは、慶喜の目が届かぬ瞬間をやられた!と言えぬ事もない。江戸帰りの船の中、いきなり勝に言われ、即決してしまった。堪えて、出しゃばらぬほうが寧ろ「良い将軍」の原理も解る。しかし、なんとかせねば!の若い正義感も燃える。困惑してる場合じゃない!しかし動けば、結果ろくでもない事ばかり。懊悩。◇慶応2年(1866):20歳:大坂城で病に倒れる。(これは、第2次長州征伐の途上)・・天皇側からも、幕府側からも急ぎ優秀な医者が派遣されたが、▼◇慶応2年7月20日(1866):20歳:医師の治療甲斐なく家茂は薨去。僅か20歳の若い将軍様の悲劇。◇家茂追記<和宮親子内親王>:これ、オヤコナイじゃなくて、「かずのみやちかこないしんのう」弘化3年閏5月10日(1846)~ 明治10年(1877)9月2日:享年32歳。仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹 。家茂死後落飾。以降呼び名は、静寛院宮。現在特集内の後半に、少し「和宮に係るミステリー」について。及び、関連本。遺骨が物語る謎。【和宮の手首と足、&歯】、解けて消えた写真。京都時代の或人物による証言他。スペア別人説【No.4へ!純情モード】なぜ、和宮が、ふと本気で「家茂」を愛してしまったか?について◆なるほど優しい訳:動物大好き少年「幼少時の慶福こと、後の家茂」TOP<幕末玄関<人物名から追跡<棺と、砂糖菓子:14代徳川将軍「家茂」と和宮:約束の京錦No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4<・・