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カテゴリ:穏やかな心、さとり
「自灯明、法灯明」の法とは、インドの言葉でダルマのことですが、これを真理ではなくお釈迦さまの教え、つまり、仏教という宗教の戒律を基準にすることだという解釈があります。
しかし、前にも述べたとおり、基準が二つあるということは迷いを生むことになるので、迷いを超える教えを説いている釈尊がそんなことを言うことはありえません。 今、心理学では宗教依存という状態があることが知られています。 宗教はその教えを指針として参考にしているうちは良いのですが、 自分の正しさの基準を宗教に頼ってしまうと依存になってしまいます。 臨死体験をしたダニオン・ブリンクリーは、あの世で光の存在にこう告げられました。 「精神主義的資本主義をつくり上げるのです」と彼は言った。 「人々の考え方を変え、その未来の思想を推し進めるのです。 政府や宗教ではなく、自分の精神そのものに頼る方法を、教えてあげるのです。 宗教は結構なことですが、なにからなにまで宗教に左右されるようではいけません。 人間は、力のある霊的存在です。 愛とは、自分がされたら喜ぶような方法で他人に接することだということさえわかってくれればよいのです」 「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎(P71)より 光の存在も、そして、宗教の良さも認めていますが、 宗教に頼りきってはいけない、自分を基準にするようにと言っています。 釈尊の戒律も正しさの押し付けではなく、道が定まらない人向けの指針でしかありませんでした。 慈悲も光の存在がいう愛とそっくりです。 釈尊の教えは、この光の存在の言葉に非常によく適合しています。 ただひとつ、ポイントは 「自分がされたら喜ぶような方法で他人に接する」ことを義務として、そうすべきだからするのか、 自分がそうしたいからするのか、 ということです。 宗教の教えにそう書いてあるからそうするのか、 宗教の教えを見て、自分もそれに賛同するからそうするのか、 その違いを見極めることがとてもたいせつです。 <続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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